
取り崩し投資運用中のQ太郎です。
今回は、FIRE後の消費の娯楽についてです。これまでの動画でいただいたFIRE・退職後の暮らし方のコメントも交えつつお送ります。
Youtubeで観たい方は以下のリンクから。
FIRE後の消費の娯楽
こんなご質問をいただきました。
「FIREしてゲームやアニメなどの趣味に没頭したくなる人がいますが、確実にすぐ飽きます。この手の消費娯楽を目的にFIREする人をどう思いますか?」
とのことです。ありがとうございます。
多くの人は、リタイアしたら「映画を観まくりたい」「旅行に行きたい」「美味しいものを食べ歩きたい」と考えます。
それ自体はいいのですが、いざそれを実行してみると、驚くほど早く「飽き」がやってきます。そうなると、また新しい消費娯楽を求めてしまうのですね。
これはQ太郎の動画で何度も登場している、ドイツの哲学者・ショーペンハウアーが言う「人間は「苦痛」と「退屈」の二大地獄の間を振り子のように動いている」というものです。
労働は「苦痛」なので、これが行き過ぎれば地獄になるわけです。そのためにFIREや退職をして「退屈」を求めるのです。最初は「苦痛」に触れすぎた振り子がもとに戻るのでいいのですが、今度はだんだんと振り子が「退屈」というもう一つの地獄へと触れていくわけですね。
金持ちは労働という「苦痛」からは解放されましたが、今度は「退屈」の地獄へと進んでいくわけです。金持ちが豪華な食事や豪華なクルーズ船旅行に飽きてしまい、ライオン狩りをしたり、スカイダイビングをしたりなど、あえて危険なことをしたくなるのも、「退屈」に触れすぎた振り子を「苦痛」の方へと戻そうとしているのですね。
つまるところ、仕事をしつつ、遊びつつと、振り子のバランスをとっていけば、幸せに暮らせるわけですが、多くの人は働きすぎで「苦痛」に行き過ぎるか、FIREや退職で労働をやめて「退屈」の地獄に入るかと、極端な状況に陥りがりです。
Q太郎的には、FIRE後も働いた方が良いというのは、この振り子のバランスをとるためなのですね。「苦痛」に行き過ぎるでもなく、「退屈」に行き過ぎるでもなくで、バランスをとって幸せに生きる。
なんか「働く」というと、お金を儲けることにすぐ結び付けてしまう人が多いですが、家事やボランティアなど「人の役に立つこと、共同体の役に立つこと」も働くことです。そもそもお金が存在しなかった時代、労働とはそのようなものでした。共同体を支え、みんなで力を合わせて生きていくのですね。
ところが現代では、労働を辞めてFIREや退職などをして、大金を投じて手に入れたはずの「自由な時間」が、これほどまでに虚しいのか。今日は、資産5,000万円を超えた先に待っている「受動的FIREの罠」と、そこから抜け出すための「能動的な遊び」について深掘りしていきます。
ハレとケの使い分け
資産が一定の水準を超えると、私たちは大抵の「消費」が可能になります。しかし、ここで残酷な事実に気づかされます。
「消費の娯楽」とは、他人が作った物語をなぞっているだけに過ぎない。
映画も、外食も、高級ホテルも、豪華クルーズ船も。これらはすべて、お金を払えば誰でも同じ体験ができる「パッケージ化された幸せ」です。脳は新しい刺激には敏感ですが、慣れるのも早い。10回目の高級ディナーは、1回目の感動の半分も与えてはくれません。それが日常になってしまうからですね。
「ハレとケ」で考えれば、たまに食べるご馳走は「ハレ」ですが、毎日食べるご馳走は「ケ」になってしまいます。ご馳走が「ケ」になってしまったら、「ハレ」に何を食べればいいのかという話になってしまうのですね。
だから幸せになりたいのであれば、「お金があっても、普段から豪華な料理は食べないことを意識した方が良い」ということにもなります。
ちなみにQ太郎の台湾の知人の子で、ヤバいぐらい舌が肥えている子がいます。外食でも安い料理は食べないのですね。値段見て食べないのではなく、味で識別して食べないのです。海原雄山のようなグルメ舌です。
アイスクリームも「バスキン・ロビンス」、日本でいう「サーティワン」のアイスを好んで食べます。安いお菓子とかは食べない。本気でまずいと感じている。「なんちゃらの山」とか、「なんちゃらの里」とか、「なんちゃらおっとっと」も多分食べないでしょう。
そんな感じで、将来の生活コストがヤバいことになりそうですが、あまり美食を極めすぎるとハレとケの使い分けができなくなるとは思います。ご馳走はたまに食べるからいいのであって、幸福になりたければ、むしろ意識的にご馳走を食べる回数を減らした方がいいとQ太郎は思います。旅館の料理も、一日目はいいんですけど、二日目、三日目からは厳しくなってきますね。
ゲームもそうでして、勉強とか労働の後に遊ぶ「ハレ」だからいいのです。毎日ゲームをしていれば、その「ハレ」は「ケ」に変わります。ゲームが「ケ」に変わってしまったら、じゃあ「ハレ」は何をすればいいのかという話になりますね。
そんな感じで、他人の創り出す「ハレ」を消費し続けると、それは「ケ」になってしまいます。そうすると、また新たな「ハレ」を探し求めて、消費を繰り返すわけです。そしてそれはまた「ケ」になって・・・と資本主義の消費社会の罠にハマっていくわけです。ハマっていくというか、沼っていくとかですね。
しかも「他人が作ったもの」ですから、それに依存することは、他人に依存することにもなります。その「他人」にあなたの選択権が奪われてしまっている状態ですね。
「他人」が「ハレ」を創り出してくれなかったら、あなたは「ハレ」を手に入れられなくなるわけです。「独立」を求めるFIREで、この依存状態はまずいわけです。
能動的な活動
一方で、一生飽きない遊びがあります。それが「能動的・表現的」な活動です。
例えば、料理とか、お菓子作りとか、スコーン作りとかですね。
効率を考えれば、お店で買った方が早くて美味しいかもしれません。働いているわけでもないFIREや退職後にタイパもクソも無いとは思いますが、何かそういうのを気にする人が多い世の中です。
しかし、あえて粉を捏ね、温度を気にし、自分の手で形を作る。この「面倒なプロセス」に没頭しているとき、私たちの脳は「消費」ではなく「創造」のモードに切り替わります。
自分の手や頭を動かさないと成立しない遊び。そこには「他人の物語」ではなく、「自分の時間の主権」を完全に取り戻しているという、圧倒的な全能感があるのです。
先ほどのハレとケの話で、他人に「ハレ」を握られてしまうと、他人に依存しなければならなくなるという話をしましたが、自分で「ハレ」を創り出せれば、他人に依存する必要は無くなるのです。
「もっといい料理はないか」「もっと面白いゲームはないか」と他人の作った「ハレ」を探し回る必要もなくなります。
べつに「他人の作ったものを消費するな」という話ではありません。「たまに外食する」とか、「たまにゲームを買う」とかで、たまに他人の作った「ハレ」を取り入れればいいのですね。
そうなれば、他人の「ハレ」を消費し続けて、それを「ケ」にしてしまって、また新たな「ハレ」を探し回るということをしなくても済むようになります。
ちなみに「ケ」が続くと、「ケ」が枯れますので、「ケガレ」になります。生活のエネルギーや生気が枯渇してしまう状態ですね。これが「気が枯れる」ということで、「ケガレ」の語源とされています。
ゲームばかりしているという状態は、「ハレ」だったものが「ケ」に変わってしまい、さらに「ケ」が続くことで「ケガレ」になってしまうこということです。たまに遊ぶ「ハレ」にとどめるように、「ゲームは一日一時間」などの制約を付けた方が楽しく遊べるわけです。
視聴者の声:コミュニティに見る「能動的な生き方」
Q太郎のチャンネルのコメント欄を見ていると、既にこの「能動的な遊び」にシフトし、豊かな孤独を楽しんでいる方々がたくさんいらっしゃいます。
絵を描いたり、手芸をしたり、ボクシングをしたり、大学院に入ることを検討していたりなど。 「他者からの評価や昇進のためではなく、ただ自分が知りたいから」という理由で、大学院で研究をしたり、難解な資格取得に挑む。これはもはや勉強ではなく、知的好奇心という荒野を冒険する「最高に贅沢な遊び」です。
一見すると「非生産的」で、一円の得にもならない行為かもしれません。しかし、一人の時間を「虚無」ではなく「豊かな作品」に変えていく力こそが、孤独を「自由」という名に書き換える唯一の手段なのです。
そもそもすべてを「お金」や「時間」という物差しで考えてしまうこと自体が、資本主義の洗脳状態とも言えます。「お金の哲学」というのは、やはりそういう資本主義の洗脳状態から脱却し、お金を道具として利用しつつ、お金への依存を減らしていくというバランスをとっていくことが重要になってきます。
お金に支配されてはいけないのですね。あくまで道具としてこちらが使う側なのです。この上下関係を間違えてはいけないわけです。そしてその上下関係を教えるために、たまに寄付してお金を手放す訓練もしておくといいですね。寄付と言ってもそんなに身構える必要はなくて、コンビニの募金箱に小銭入れれば十分です。
ちなみに「推し活」ではなく「寄付」です。「推し活」と「寄付」の違いですが、「推し活」は自分の欲望に結びついているので、どちらかと言えば「ゲームを買う」などと同じような「消費」なのですね。「推し活」を批判しているわけではなく、あくまでジャンルの違いです。自分の欲望と関係ないところでお金を捨てられるかという話ですね。
仏教には「喜捨」という言葉がありますが、自分の欲望とは関係の無い他人のために、お金を喜んで捨てられるかですね。1円でもいいので募金箱に放り込んで、お金を手放してみれば、「あ、お金って大したことないわ(笑)」と、お金の不安がちょっとは消えるかと思います。
まとめ:孤独を「自由」という名に書き換える
さて、今回は「受動的FIREの罠」と、そこから抜け出すための「能動的な遊び」についてお話ししてきました。
私たちが目指したはずのFIREは、決して「他人が用意した娯楽を消費し続ける余生」ではなかったはずです。 ショーペンハウアーが喝破したように、労働という「苦痛」から逃げた先で、何もせずに「退屈」という地獄に飲み込まれてしまえば、それは檻の形が変わっただけに過ぎません。
お金があれば、確かに豪華な食事や最新のゲームという「ハレ」を簡単に買うことができます。しかし、それを日常という「ケ」の中に無理やり詰め込めば、感性は摩痺し、やがてあなたの生気は枯れ、「ケガレ」の状態へと陥ってしまいます。
幸福の秘訣は、他人に「ハレ」を握らせないことです。
あえて不自由を受け入れ、粉を捏ねてスコーンを焼き、知的好奇心の赴くままに学び、時には自分と無関係な他者のために小銭を「喜捨」する。それでたまに他人の「ハレ」を取り入れたりする。
こうした一見「非生産的」に見える能動的な活動こそが、資本主義の洗脳を解き、あなたをお金の奴隷から「人生の主権者」へと引き戻してくれます。
他人が作った物語を消費するだけの「観客」で終わるのか。 それとも、自分の手で日々を耕し、自分の内側に喜びを生み出す「表現者」として生きるのか。
孤独を「虚無」と呼ぶか、「自由」と呼ぶか。その答えは、あなたの手の中にあります。
皆さんは、他人の物語に頼らず、自分だけで完結できる「能動的な遊び」を持っていますか? あるいは、お金を手放す訓練として、どんな「喜捨」を実践していますか? ぜひ、コメント欄で皆さんの「感性の守り方」を教えてください。
数字を味方に、そして自分の人生を自分の手で耕していきましょう。
