【脱・消費】「お金持ち=偉い」という病の治し方。「消費」をやめると人生の主権が戻ってくる理由

chinpan erai

取り崩し投資運用中のQ太郎です。

今回は「お金持ち=偉い」という消費社会の風潮についてです。

Youtubeで観たい方は以下のリンクから。

- YouTube
YouTube でお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。
スポンサーリンク

脱税ニュースの裏側にある「消費の病」

今回は「お金持ち=偉い」という消費社会の風潮についてです。

こんなご質問をいただきました。

「イーロン・マスクにしろ、ホリエモンにしろ、「お金持ち=偉い」という風潮があると思います。人格的には問題のある人でも、「お金を持っていればとりあえず尊敬する」みたいな社会をどう思いますか?

とのことです。ありがとうございます。

確かに、なんかお金のある人をとりあえず尊敬するみたいな風潮はありますね。イーロン・マスク氏とかスティーブ・ジョブズ氏とか、人間的にはかなりアレな人ではありますが、一定のファンはいて、尊敬されてはいます。

消費社会では、「いかに消費するか」ということが社会的なステータスになっています。アメリカはガチでこのあたりがすごいですね。「成功=お金」の世界ですし、「たくさん消費できる人が人生の勝利者」という話ですね。

「いかに稼ぐか」の世界で、「稼ぎよくても貯金が無いやつ多い」の世界なので、そりゃ経済も良いわけです。ガンガン稼いで、ガンガン消費してくれるわけです。世界中の企業にとってはありがたいお客様です。消費大国と言われるだけはあります。

脱税したインフルエンサー

日本はまだ「貧しく美しく」や、「清貧」の思想が昔からあるので、アメリカほどではないにしても、近年はやっぱりお金持ちがもてはやされる風潮はありますね。立派な哲学者よりも、何億も稼いだ人の方が尊敬されますし、メディア露出は多いわけです。

以前に、美容系インフルエンサーが約1.5億円を脱税したというニュースが世間を騒がせました。SNSで数十万人のフォロワーを抱え、高級ブランド品や華やかな生活をこれでもかと見せつけていた彼女に対し、多くのファンが憧れを抱き、その言葉を信じて商品を買い求めていました。

メタ的にこの状況を見ると、高級ブランドなどの多額の「消費」が、その人物の「信用」になっているのですね。

ここで一つ、冷静に考えてみてほしいことがあります。

なぜ私たちは、「お金をたくさん稼いでいる人」「お金をたくさん使っている人」を「正しい人」や「信用できる人」だと思い込んでしまうのでしょうか?

昔の日本であれば、お金を派手に使う人はむしろ「胡散臭い」と思われ、地道に技術を磨く職人や、慎ましく暮らす人の方が人格的に優れていると見なされてきました。時代劇に出てくる「越後屋」は、だいたいろくなやつではありませんしね。

しかし、今の時代はその価値観が180度逆転しています。「いかに多く、いかに派手に消費できるか」が、その人の人格や能力、さらには「信用」の証明になってしまっているのです。

今日は、平川克美氏の著書『「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ』をもとに、私たちがいつの間にか閉じ込められてしまった「消費という名の檻」の正体を暴き、そこから抜け出すためのヒントをお話しします。

 欲望のオリジナリティは「幻想」である

そもそも、なぜ日本人はこれほどまでに「消費」に狂奔するようになったのでしょうか。平川氏は、その大きな転換点はテレビが一般家庭に普及し始めた1950年代以降にあると著書で述べています。

かつて、私たちの欲望は「生活に必要なもの」という、身体に根ざした非常に具体的なものでした。

戦中や戦後まもなくは、そもそも物が無いので、消費という概念もほとんどなくて、食べ物や生活必需品を買って終わりみたいな状況でした。働くのと食うのに忙しい世界ですね。

それで戦後になって、ちょっと余裕ができてきて、1953年にはテレビが日本に導入されました。ここから消費行動が変わっていきます。

テレビというメディアが家の中に入り込んだ瞬間、私たちの欲望は「自分の欲しい物」ではなく、「他人が持っているもの」へと書き換えられました。

これをフランスの哲学者ルネ・ジラールは、その著書「欲望の現象学」において、「模倣の欲望」と呼びました。簡単にいうと、「自分の欲望にはオリジナリティなどなく、その多くは他人のコピーである」ということです。他人の持っているものを見て、自分も欲しがるというものですね。

テレビ画面に映る都会的な生活、美しいモデルが身にまとう衣服、新発売の家電。それらを目にすることで、「自分もあれが欲しい」という欲望が植え付けられていきました。私たちは自分の意思で選んでいるつもりで、実はメディアという鏡に映った「他人の欲望」をコピーして走らされているだけなのです。

ドラマを作るときも、主人公の家はあえて一般家庭より「ちょっと上」に設定します。一戸建てで、整った洋風キッチン。庭もあって、ペットもいる。広いリビングもあるし、子供部屋もある。「ちょっと頑張ったら手が届きそう」という絶妙な設定にして、視聴者の購買意欲を高めるようにしています。

テレビによる宣伝は効果が高く、現在でもテレビ宣伝には多額の費用が必要です。その大金を払っても、さらにペイできるぐらいの費用対効果があるということですね。

余暇の増大がもたらした「娯楽という名の強制」

消費を加速させたもう一つの要因は、労働時間の短縮、つまり「週休2日制」の普及です。 かつて休日は「仕事の疲れを癒やすための休憩」でした。働いて疲れた体を休めるための休養期間ですね。

ただ昔は、土曜日はいわゆる「半ドン」だったので、午後は休みなんですね。Q太郎的には、なんか小学生のころ、日曜日より土曜日の方がテンションが上がる感じがしていました。学校で友達と、「午後どこで遊ぶか」の打ち合わせをすることができましたしね。

しかし、週に2日の休みが当たり前になると、休日は「休みの日」から、「能動的に楽しまなければならないレジャーの時間」へと変貌しました。

いわゆる「余暇の増大」です。 「休みの質」が変わってしまったのですね。

この週休二日制によって、うちのチャンネルで何度も登場しているドイツの哲学者ショーペンハウワーのいう、「苦痛の退屈の二大地獄」の「退屈」が顔を見せてきたのです。

しかし、この増えた「退屈」という時間に対して、自分自身で楽しみを見つける「能動的な遊び」を知らない人々は、手持ち無沙汰になります。その隙間に滑り込んできたのが、企業が提供する「パッケージ化された娯楽」です。

「自分で「退屈」の過ごし方を考えられないなら、お金と引き換えに、企業が考えてやる」ということですね。

買い物に行く、レジャー施設へ行く、流行のレストランへ行く。 「せっかくの休日なんだから、どこかへ行って何かを消費しなければならない」という強迫観念が生まれてくるわけです。

仕事の休憩だったはずの休日が、今度は「消費という名の労働」にすり替わってしまったのです。

自分ひとりだったらまだいいのですが、子供がいるとさらにやっかいな話になります。「休日どこにも連れて行ってもらえなかった」では、友達に対するメンツみたいものが保てません。親としては、やっぱりどこかに遊びに連れて行ってあげたいわけです。そうじゃないと子供がかわいそう、という話になってきます。長期の休みとか、子供は楽しいかもしれませんが、親にとってはある意味「地獄」なわけですね。子供は体力ありあまってますしね。

こうして、たゆまぬ企業努力と世の中の風潮によって、私たちの価値観は徐々に書き換えられました。「多くを生産する者が偉い」から、「多くを消費し、余暇を謳歌している者が偉い」という世界観への移行です。

FIREもちょっとこの傾向ありますね。「余暇を謳歌するのが偉い」みたいな価値観です。

「顔の見えない消費」と、信用の代替品

昔の社会、たとえば平川氏が提唱する「銭湯経済」のような半径3km圏内の暮らしでは、その人の価値は「人格」や「技術」にありました。 「あの人は口は悪いが、腕は確かだ」「あの人はいつも銭湯で会う、気のいい隣人だ」。

顔が見える関係性の中では、わざわざお金を持っていることをアピールしなくても、その人の「正体」は周囲に知れ渡っていました。

著書の中では、平川氏の母親が亡くなったとき、タンスには使われていない父や自分の靴下があったといいます。なじみの商店街へ行き、店の人と話をするついでに買い物をしていたということですね。重要なのは「話をすること」であって、「買い物はそのついで」なわけです。買い物自体には重点が置かれていないのです。あくまでコミュニケーションが中心の社会でした。

しかし、現代は「顔の見えない消費」が主流です。 SNSという匿名性の高い空間で、あるいは巨大なショッピングモールで、私たちは「ただの消費者」として扱われます。そこでは、あなたの内面や人格は見えません。私たちも、店員が誰なのかは知りません。

平川氏はこれを「アノニマス消費」と呼んでいます。「顔の見えない消費」ですね。

ところが人間は、やはりどこかで自分と他者を差別化したがるのですね。

そこで、「アノニマス消費」において、他者と差別化をはかるために残された唯一の手段が、「いかに多くのお金を持っていて、いかに消費したか」を見せつけることだったのです。顔が見えない以上、個性化はできないのですから、「お金という物差し」で決めるしかないわけです。

冒頭のインフルエンサーの例も、まさにこれに近い物があります。彼女は「消費の多さ」を見せることで、自分という得体の知れない存在を「価値あるもの」としてデコレーションし、それをフォロワーからの「信用」へと強引に変換していました。「消費」は現代社会では「信用」になってしまうのです。

人格ではなく「財布の厚み」で人を評価する。これは、私たちが「顔の見えない社会」に生きているからこそ陥ってしまった、極めて現代的な病です。

この「アノニマス消費」を読んだ時にQ太郎がすぐに思い出したのが、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に出てくる「カオナシ」です。

顔が見えない存在なので、「お金をいかに持っているか」を千尋に見せなければならないのです。それで手からたくさん砂金のようものを出したわけです。これがまさに、アノニマス消費を風刺しているのです。アノニマス消費の世界では、お金をたくさん出すことでしか、自分のアイデンティティを示す方法が無いのです。

銭湯経済のすすめ:消費の檻から脱出するために

平川氏が説く「銭湯経済」とは、単に銭湯に行こうという話ではありません。それは、「消費によって空虚感を埋め合わせるのをやめ、顔の見える関係性の中に戻ろう」という提案です。

砂金の多さでアイデンティティを示す「カオナシ」ではなく、実感を持って世の中とつながることですね。

ベストセラー本「バカの壁」で知られる養老孟司氏は、現代人が感覚や自分で手を動かすことをしなくなり、「頭」しか使わなくなってきたことを「脳化」と呼んでいます。脳化が進むと、現実に対する感覚が希薄になってくるのですね。

この脳化を防ぐためには、自分で料理をつくったり、掃除をしたりなど、自分の感覚や手を使っていくことが重要だとは思います。ラーメンを作るときも、3分間をタイマーではからずに、「麺がほぐれたから食べられる」という自分の感覚で調理をするのがいいでしょう。

インフルエンサーのいう「家事をアウトソージングすると幸福度が上がる」というようなことは、たまにだったらいいんですけど、定期的にそれをしてしまうと、結局その便利サービスに依存してしまうことになりますし、結果的にそのサービスを利用するための資金である「お金」に依存することになるのですね。生活レベルを落とせなくて、お金が減ることにおびえ続ける人生になるわけです。

消費社会としては、そういうサービスをどんどん利用してもらって、どんどん無能になって、どんどん依存してもらうのが一番なんですけどね。

そんな感じで、私たちに必要なのは、企業や市場にコントロールされた「模倣の欲望」ではなく、もっと手触りのある、身体的な充足感です。

私たちが「もっとお金が欲しい」「もっと買い物をしたい」と願うとき、その根底にあるのは「自分は何者でもない」という透明人間的な不安です。その不安を、お金を使って、ブランド品や贅沢な食事というラベルで塗り固めて隠そうとしているだけなのかもしれません。お金でアイデンティティを示すしかない「カオナシ」なのですね。

自分で自分を認められる人はこういう心配はないのですが、そうじゃない人は、やはり他人からの承認が必要になります。人間は社会的な生き物ですしね。

もし「今の自分」のままで誰かに認められ、居場所を感じることができれば、わざわざ高いお金を払って「欲望のコピー」を買い集める必要はなくなるんじゃないかとは思います。平川氏が説く銭湯経済とは、前に述べたように「消費によって空虚感を埋め合わせるのをやめ、顔の見える関係性の中に戻ろう」ということなのです。

 結び:人格を取り戻すための「不買」

「消費」という言葉の語源をご存知でしょうか。それは「消して、費やす」ことです。 消費は一時的な快楽を与えてくれますが、あなたの内側を豊かにすることはありません。むしろ、消費すればするほど、もっと新しい刺激が必要になり、あなたは永遠に終わらないラットレースに巻き込まれていきます。

Q太郎がおすすめするのは、一度立ち止まって「これは自分の本当の欲望か? それとも他人のコピーか?」と問い直すことです。まあ、だいたい他人のコピーですけどね。

そんなわけで、アノニマス消費における「お金がある=偉い」という価値観は、資本主義が作り出した最強の幻想とは思います。ファイナルファンタジーですね。

お金を派手に使っているインフルエンサーを見て「すごい」と思う前に、「チンパンジーでもお金は使える」という動物実験を思い出してみるのがいいとは思います。

たまにの消費はいいですけど、お金の多さで差別化をはかる「アノニマス消費の罠」にはまらないようにしましょう。

Q太郎的には、高い料理を食べる人より、その料理を作った人の方がすごいと思います。高級車に乗るより、高級車を作った人の方がすごいです。この感覚を取り戻した方が良いんじゃないかとは思います。チンパンジーでもお金は使えますけど、料理を作ったり、高級車を作ったりはできませんしね。

皆さんは、最近「他人のコピー」で買ってしまったものはありますか? あるいは、消費に頼らない「自分だけの静かな楽しみ」を持っていますか? ぜひ、コメント欄で皆さんの脱・消費戦略を教えてください。

数字を味方に、そして自分の人生を自分の手で耕していきましょう。

タイトルとURLをコピーしました