【お金の限界】なぜ「お金を払う」と人は動かなくなるのか?市場原理に魂を売った現代人のバグ

okane genkai

Q太郎のお金の哲学です。

今回は、お金の限界についてです。

Youtubeで観たい方は以下のリンクから。

 

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良意が「商品」に変わる瞬間

以前に、寄付の一環として、「献血」を行っているという視聴者様のコメントを取り上げたことがあります。結論から言えば、この献血は、あえて金銭的な報酬をあたえないことによって、逆に献血する人たちを増やしてきました。不思議なことに、お金を与えると、逆に献血する人が減るのですね。

これについては後ほど詳しく述べますが、世の中の多くの人は、「おカネさえ払えば、人は喜んで動く」「報酬を増やせば、物事はすべてうまく回る」と盲信しています。資本主義の社会にどっぷり浸かっていると、おカネこそが最強のモチベーションだと思い込んでしまうのですね。

しかし、行動経済学や心理学の歴史が証明しているのは、まったく真逆の現実です。 実は、人間が「社会の役に立ちたい」「誰かを助けたい」という純粋な善意、つまり「内的動機」で動いている領域に、下手に『おカネ』という報酬を絡めた途端、人間のモチベーションは劇的に低下し、そのシステム自体が跡形もなく崩壊してしまうという強烈な罠が存在します。

今回は、有名な「献血の実験」をはじめとする社会のバグを解き明かしながら、なぜおカネを万能の神様だと信じている人が人生で大失敗するのか、その本質を解き明かしていきます。

献血をおカネで買うと、なぜ人が減るのか?

かつて社会心理学者のリチャード・ティトマスが、非常に興味深い調査を行いました。

ボランティアによる「無償の献血」が主流だったイギリスと、おカネを払って血を買い取る「売血」が横行していたアメリカを比較したのです。普通に考えれば「善意」、つまりタダよりも、「おカネがもらえる」ほうが、たくさんの人が血を提供しに集まりそうですよね。

しかし、結果は真逆でした。 おカネを絡めた途端、献血をする人の数は激減し、さらに集まった血液の質も圧倒的に低下してしまったのです。

なぜこんなことが起きるのか。理由は人間のプライドにあります。 タダで献血をしているとき、人は「自分は社会に貢献している善良な人間だ」「誰かの命を救っている」という、おカネでは買えない強烈な「品格」、つまり「内的動機」を報酬として受け取っています。これが大きなモチベーションになっているのです。

ところが、そこに「血を提供したら3000円あげます」とおカネを提示された瞬間、その崇高な行為は、ただの「自分の血の切り売り」というチープな労働に格下げされてしまいます。「3000円のために自分の体を傷つけたくないな」「自分の血をお金で売りたくないな」という計算が働き、善意の一般層はその場から立ち去ってしまうのです。残るのは、おカネに困り果て、健康状態を偽ってでも3000円が欲しい層だけになります。そのため、献血をする人の数自体は、全体的に減ってしまうのです。

おカネという強力すぎる外的動機は、人間が本来持っている「自発的な美学」を綺麗に消し去ってしまう、猛烈な毒性を秘めているのです。

中国の「血牛」

これは単なる学術的な実験データの中だけの話ではありません。現実の世界において、おカネの力で命のインフラを支配しようとした結果、あまりにも凄惨なディストピアを生み出してしまった実例があります。

それが、お隣の中国でかつて大問題となり、今なお闇で続いているとされる「血牛」と呼ばれる売血ビジネスと、貧困層の悲劇です。

1990年代の中国などでは、貧しい農村地帯の貧困層をターゲットに、血を提供させてその対価としておカネを支払う「売血」が組織的に、かつ大規模に行われました。おカネを持たない貧しい人々は、日々の生活費を稼ぐために、自分の身体を削って何度も何度も血を売りに行くようになります。社会からは彼らは人間ではなく、文字通り「血を搾り取るための家畜」、すなわち『血牛』と呼ばれました。

善意による献血であれば、「自分の健康を守りつつ、他人の役に立ちたい」という内的動機が働くため、無理な献血はしませんし、体調管理にも気を配ります。

しかし、そこに「生きるためのおカネ」という、強烈すぎる外的動機が絡んだ瞬間、景色は地獄へと一変します。

貧困層の人々は、おカネ欲しさに健康状態を偽り、本来であれば許されない頻度で、限界を超えて血を売り続けました。さらに恐ろしいのは、効率的におカネを回そうとした違法な回収業者たちが、血液から必要な成分だけを抽出したあと、残った赤血球を複数の人間のものと混ぜ合わせ、再び『血牛』たちの体内に戻すという、恐ろしいコストカットを行ったのです。

その結果、何が起きたのか

善意の世界におカネというノイズを持ち込み、人間の命を「ただの商品」として扱った結果、エイズなどの感染症が爆発的に広がり、村中の大半の人間が感染して死亡する「エイズ村」と呼ばれる廃村が各地に乱立することになりました。

おカネを払えば、おカネに困っている人が喜んで血を差し出す。市場原理のルールとしては完璧に見えるシステムが、人間の尊厳を破壊し、数え切れないほどの命を奪う最悪の悲劇を招いたのです。おカネという外的動機は、時にモラルだけでなく、人間の肉体そのものまで家畜のように食い潰していく狂気を孕んでいます。

保育園の実験が証明した「おカネという免罪符」

もう一つ、これと全く同じ構造を持つ、イスラエルの保育園で行われた有名な実験をお話ししましょう。

夕方、子どものお迎えに遅刻してくる親に困り果てた保育園が、ある対策を導入しました。 「遅刻した親からは、10分ごとに一律の罰金を徴収します」というルールです。おカネというペナルティ(外的動機)を課せば、親たちは必死に時間を守るだろうと考えたわけですね。

ところが、恐ろしいことに、罰金を導入した途端、お迎えに遅刻してくる親の数は、それまでの2倍に跳ね上がってしまいました。

なぜか。罰金が導入される前、親たちは「保育士さんに申し訳ない」「時間を破るのは恥ずかしい」という、道徳心や罪悪感、つまり内的動機で動いていました。 

しかし、そこに「罰金」という価格がついた瞬間、親の脳内では「申し訳ないという罪悪感」が、「おカネを払えば遅れてもいいという商品」にすり替わってしまったのです。「おカネを払っているんだから、堂々と遅れても文句はないだろう」と、おカネを免罪符にして、罪悪感を踏みつぶすようになったのですね。

これこそが、あらゆるものを価格で支配しようとする「市場原理の傲慢さ」です。おカネは、人間の美しいモラルや自律心を、一瞬でただの「取引」へと劣化させてしまうのです。

トランプ大統領のディール

そしてこの「何でもおカネのディールで解決しようとする病」は、何も一般家庭の保育園や、貧困層の農村だけの話ではありません。現代における世界の最高権力者たちの間でも、全く同じバグが平然と執行されています。

その最たる象徴が、アメリカのトランプ大統領です。

彼はビジネスマン出身ということもあり、政治や国際関係、果ては国家間の同盟にいたるまで、すべての物事を「ディール」、つまりおカネという外的動機だけで片付けようとしますよね。

「アメリカが日本や韓国を守ってやっているんだから、もっと防衛費を払え。払わないなら守らない」

「お前たちの国から買うばかりで貿易赤字だから、関税をかけておカネをふんだくるぞ」

一見すると、おカネの計算がはっきりしていて、いかにもビジネスライクでスマートな交渉に見えるかもしれません。

しかし、ここに国際政治における「市場原理の致命的な罠」があります。

本来、国家間の同盟や安全保障の本質というのは、おカネの損得を超えた「価値観の共有」や「絶対的な相互信頼」という、いわば内的動機、目に見えないモラルで繋がっているからこそ、強力な抑止力として機能します。

それをトランプ大統領のように「おカネを払うか・払わないか」というただの『有料のセキュリティーサービス』に格下げしてしまった瞬間、同盟国側の脳内は先ほどの保育園の親と同じバグを起こします。

「おカネで割り切る取引なら、アメリカがピンチの時に、なぜ我が国の若者の命をかけてまでアメリカを助けなきゃいけないんだ?」

「ビジネスなんだから、もっと安くて条件の良い国、例えば中国などとディールした方が得じゃないか?」

そうやって、各国が物事を価値観よりも損得勘定で考えだしてしまうのです。

おカネを提示して主導権を握ったつもりが、長年かけて築き上げてきた「プライスレスな同盟の信頼関係」をみすぼらしい日雇い労働の契約書に変えてしまい、結果としてアメリカの国際的な信用や影響力を内側からガラガラと崩壊させていく。

おカネという外的動機を世界規模で振り回した結果、最も大切な「目に見えない信頼のネットワーク」を自らドブに捨てることになる。これこそが、資本主義のルールを国家経営にそのまま持ち込んだ男が露呈させた、おカネの最大の限界なのです。

数字のコレクターから、モラルの主人へ

数字を増やす蓄財ゲームに熱中している多くの投資家は、こう思い込んでいます。 「おカネさえあれば、すべての問題が解決する」 「おカネさえあれば、最高の人間関係も、安心も、やりがいも買える」

しかし、今回の実験が示している通り、人生における本当に大切なもの――「誰かを大切に思う気持ち」「自分の仕事への誇り」「社会との温かい繋がり」といった内的動機は、おカネというノイズを近づけた瞬間に、その輝きを失って消滅します。動機が内的動機から外的動機に変わってしまうのですね。

そして、この外的動機というシステムに脳を乗っ取られると、人間は恐ろしいバグを起こし始めます。 すべての行動原理が「外から与えられる報酬が良いか悪いか」、つまり、自分にとって得か損かという、みすぼらしい「損得勘定」だけで行われるようになってしまうのです。

「ゲーム買ってくれないなら、勉強しない」

「おカネがもらえるならやるけれど、1円も出ないなら絶対にやらない」 

「高い報酬をくれるなら他人の顔色を伺って媚びへつらうけれど、報酬が下がったら手のひらを返す」

大人も子供も、こんなことばっかり言っている世界とか、住みたいと思いますか?

これでは、どれだけ通帳の数字が1億円、2億円と増えたところで、その中身は外側の条件に右往左往させられるだけの、ただの「歩く計算機」です。おカネという主人の一喜一憂に怯える奴隷に逆戻りしているのと同じことです。本当の意味での自由なんて、そこには1ミリも存在しません。 得か損かだけにコントロールされているのです。

もしあなたが、FIREや退職をして本当の意味での自由で豊かな人生を送りたいのであれば、やるべきことは通帳の数字を増やすことではありません。おカネという「外的動機」の支配から、自分の魂を切り離すことです。。

そして、「おカネが1円も発生しなくても、他人に評価されなくても、自分が心からやりたいと思えること」――すなわち、あなただけの「内的動機」を、その両手でしっかりと人生のど真ん中に取り戻すことです。

他人が勝手に定義した「報酬」という名の欲望のコピーを追いかけて、自分の美しいモラルや、豊かな感受性を摩耗させるだけの人生からは降りましょう。 お金という、現代社会が作り出した偽物の神様に、あなたの人生の品格や生き様まで支配させてはいけません。おカネは主人ではなく、あなたの人生を豊かにするためのただの「道具」であり、「商品券」なのですから。 商品券に支配されるのはさすがに悲しい人生なので、自分が「道具」として「適切に」使って支配しましょう。

皆さんは、もし明日からおカネという仕組みがこの世から綺麗さっぱり消え去ったとしたら、自分の人生の畑に、一体何を植えて育てますか? おカネという肥料がなくても、あなたが毎日水をやり、愛おしく育てたいと思える「内的動機の種」は何でしょうか。

数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。

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