「仕事なんか生きがいにするな」は正しい?【要約解説/FIRE】
新NISA一括投資→即毎月定率取り崩し運用中のQ太郎です。
今回は、泉谷閑示(いずみやかんじ)氏の「仕事なんか生きがいにするな」についてです。
本記事をYouTube動画で観たい方はこちらのリンクから。
仕事なんか生きがいにするな
こんなご質問をいただきました。
「「仕事なんか生きがいにするな」という本は読まれたでしょうか?
この本の中では、昔の人はハングリーモチベーションを元に労働をしていましたが、現代人はそもそも最初から衣食住の心配がないことや、情報があることから努力した先に幸せがあるとは思っていないことなどから、仕事へのモチベーションが上がらず、「なぜ人は生きるのか」のような実存的な問いをするようになりました。
現在、FIREを目指す若者が多いのも、仕事に対するハングリーモチベーションが無くなり、「生きる意味」を問いかける人たちが多くなったからだと言います。
著者は仕事に生きがいを探すべきではなく、日常に遊びを取り戻すことが重要だと説いています。これはホリエモンなどの言う「遊ぶように仕事をしろ」という話でもなくて、そもそも世の中に価値を生み出すとか、何かしらのメリットのために趣味を行うというのはやめて、単に自分にとっての幸せを追い求めるべきとの話です。
個人的に納得できる部分はあるのですが、うーんと思う部分もあります。
そもそも人生やら何やらを考えられるのは、ある程度お金があって生活が安定している人たちのやることで、多くの人は経済的にそれどころではないので、やはり一生懸命働いた方が良いんじゃないかという気もします。仏教でも、幸せとは目の前の事を真剣にやることだと説いています。
もし読んでいたらこれについての意見を教えてください」
とのこです。
本自体は以前読んだことがあるのですが、細かいことを覚えていないのでざっと読み返してみました。
それでまず「ハングリーモチベーション」という言葉ですが、飢えや渇きに対して、それを克服するための生理的なモチベーションですね。ようは人というか生物すべてが持っている生命維持のためのモチベーションです。
物が無く、貧しい時代の人たちはこの「ハングリーモチベーション」を元にして働いていました。明日食えるか食えないかわからないような状況なので、「人生が云々」とか「政治が云々」なんて考えている暇がないのですね。ちなみに「百姓は生かさず殺さず」というのも、とにかくハングリーモチベーションを動機に働いてくれれば、矛先が幕府や政府に向かわないということです。
現在の日本も可処分所得が低くなって、「人生が云々」なんて言ってられない状況にもなってきており、「ハングリーモチベーション」で働くのがむしろ当たり前になってきたことから、政府にとっては願ったりかなったりみたいな状況になっています。
人間忙しくなると頭が悪くなりますし、視野が狭くなって自分のことしか考えられなくなりますので、この状況は非常にまずいのですね。そのためハングリーモチベーションで働くことはあまりよろしい事とは言えないというのは、Q太郎もそう思います。
つまるところハングリーモチベーションは、労働自体に価値を見出せず、単にお金を稼ぐ手段として利用しているだけだということです。つまり別の方法でお金が入ってくるなら、労働なんてさっさとやめてしまうわけですね。
この本では労働と仕事の違いを定義していて、もともと人間は生活に対する手ごたえを得られる「仕事」をしていたのですが、それが産業革命を経て奴隷的で意味を持たない「労働」へと変わっていってしまったと述べています。
著者は頑張って働くことは正しいことで、お金を貯めた先に幸せがあると思い込んでいる人たちに対し、皮肉を込めてアウシュビッツ収容所の入り口にある「働けば自由になる」という看板の写真を掲載しています。アウシュビッツで働いた先に何があったかは、皆さんが知るところでしょう。
著者は「ハングリーモチベーションで働いていた人間は、極端な言い方をすれば、虫などと同じ行動原理で動いていたいようなものだ」と言います。腹が減ったから食糧を求め、危険だから安全なところに逃げ込むという、単に生物の生存原理に沿って動いているだけなので、それを崇高なものとは言わないという話ですね。
それでこのハングリーモードがまずいのは、飢えを満たしたあとに、また次の飢えが来てしまうことです。お金を貯めれば貯めるほどもっと欲しくなる、欲しいものを買えば買うほどさらに欲しくなるというような行動原理も、ぶっちゃけ虫レベルという話です。欲しいものが手に入ればその瞬間はうれしいですが、またすぐに飢えを感じるようになり、また新しいもの、もっと上のものを求めてしまいます。
そこでそういう「達成」に幸せを求めるのではなく、日常に楽しみを求めることを薦めています。人生の大半は日常ですから、そこが楽しくなかったら悲惨な人生になるということですね。
生きる意味というのは、お金を稼いだり有名人になったりFIREを達成したりなど、何かを得たり達成したりすることで感じられるものではなく、「人生に意味を問う」ことにベクトルを向けることだと言います。
何か特別なことをしなくてはならないのが生きる意味だったとしたら、人生の時間のほとんどを占める日常は生きる意味を感じられない殺伐としたものになります。
特別なことや達成のために、人生のほとんどを占める日常を死んだように生きているのであれば、それはひたすら苦痛の中で生き続けているだけではないかということですね。FIREを目指すために今つらい思いをしているというのも、これは日常を死んだように生きている状態なので、そんなことだったらFIREなんか目指さないで日常を楽しく生きて欲しいとは思います。
日常が楽しめるということは、人生のほとんどの時間を楽しめるということです。幸せというのは特別なことをしたり達成したりするわけではなく、日常をいかに楽しむかが重要になります。Q太郎もちょくちょく家事をやることをすすめたり、自炊したり、家電を使わないことをすすめていますが、これも日常を楽しむために必要なことになります。自分の力でやることで、常に何かしらの工夫が必要になるのですね。モノに幸せを求めるのではなく、日常のささいなことの中に工夫や幸せを求めていくというものです。
ハングリーモチベーションで仕事をしていた時代は終わり、今は常に「人生に意味を問う」ことで幸せを目指す時代になってきています。人から与えられたものではなく、自分で考えて、自分にとって適切な場所を見つけることですね。そのため、馬鹿にされがちな「自分探し」ですが、この自分にとっての適切な場所を見つけてしまえば、あとは自動的に自我なんて消えていくと言います。夏目漱石のいう「則天去私」ですね。
人は生まれたときは自我の無い0の状態で、それが自我のある1の状態になり、さらに自分の適切な場所を見つけることで自我が消えて全体のことを考えられる0に戻ると著者はいいます。ハングリーモチベーションで働いている人たちや、自我を探すことに意味が無いという人は、この最初の0の状態から動いていないだけで、苦労して1を経てから0になった状態で発言しているわけではないと著者は言います。
まあ、自分探しでインド行ったり旅行したりというのは、外部の刺激によって偽の思い込みが発生する場合もあるので、そういう周りに流される形の自分探しはあまりよろしくないというかむしろ変な方向に行きがちなのですが、ちゃんと自分をメタ認識して、どういうときに喜んだりとか悲しんだりとか何を好むのかを第三者の立場で観察することが必要になります。そのため、べつに旅行いかないくていいですし、旅行行って自己分析してなかったら単に「旅行行って楽しかった。インド行って人生変わりました」みたいなどうでもいい感想しか出てこなくなります。
人生変わってる時点でちゃんと分析しとらんやん、まわりというかインドに流されとるやんみたいな話ですね。自分どこ行ったみたいな感じです。説明するのが難しいですが、そういう表面的な話では無くて、自分のもっと根本的なものを観ないといけないのです。仏教的に言えば、ようは悟っていただければということですね。
そんなわけでハングリーモチベーションの状態だと、ひたすら達成感を求め続ける人生になり、人生のほとんどである日常を楽しめなくなります。その段階を超えて自分の適切な場所を見つけ、そこに居座ることができたうえで0に戻るという、乗り越えた上での無我の状態で広く世の中を観て「自分なんか存在しない」と発するならわかるのですが、初期段階のハングリーモチベーションで動いている人たちが「自分なんて存在しない。とにかく働け」みたいなのは、腹減ったから餌を求めて欲求を解消する虫レベルだというわけです。
まとめ
そんなわけでまとめると、
・ハングリーモチベーションは、腹が減ったから餌を求めるという生物の根本的な欲求レベル。つねに達成感(飢えを満たす)ために動き続けなければならない。
・ハングリーモチベーションの人たちは、労働が尊いというようなことを言うが、実際は単にお金を稼ぐ手段として利用しているだけ。他の手段でお金が手に入るなら労働はすぐにやめる。
・特別なことや達成のために、人生のほとんどを占める日常を死んだように生きているのであれば、それはひたすら苦痛の中で生き続けているだけ。
・いまはハングリーモチベーションの時代が終わり、「人生に意味を問う」ことで幸せを目指す時代に。
・幸せというのは特別なことをしたり達成したりするわけではなく、日常をいかに楽しむかが重要。モノに幸せを求めるのではなく、日常のささいなことの中に工夫や幸せを求めていく。
・生きる意味というのは、何かを得たり達成したりすることで感じられるものではなく、「人生に意味を問う」ことにベクトルを向けること。
・人は生まれたときは自我の無い0の状態で、それが自我のある1の状態になり、さらに自分の適切な場所を見つけることで自我が消えて全体のことを考えられる0に戻る。
・ハングリーモチベーションの人は最初の0の状態のまま(まわりに流されて生きており、インドで人生が変わる感じだけど、けっきょくそれはインドに流されているだけです)。
・自分をメタ認識し、自分にとって適切な場所を見つける(1になる)ことで、自然と全体と調和した無我(0)になる。
・初期段階のハングリーモチベーションで動いている人たちが「自分なんて存在しない。とにかく働け」みたいなのは、腹減ったから餌を求めて欲求を解消する虫レベル。1を経てから出た結論ではない。
とのことです。
そんなわけで必要なのはハングリーモチベーションではなく、「人生に意味を問う」ことで、0→1→0の過程を経ることが重要だと言います。
もしハングリーモチベーションで働き続ければ、それはひたすら達成を求め続ける人生になり、人生のほとんどを占める日常を死んだように生きるしかなくなります。
そうではなく、人生のほとんどを占める日常に目を向け、そこでいろいろな工夫をこらしたりしながら自分にとって適した幸せを見つけだす感性を磨くことが重要だという話ですね。
そんなわけでハングリーモチベーションでFIREという達成を目指すより、日常をいかに楽しむかが人生を幸せなものにしていくとは思います。