
取り崩し投資運用中のQ太郎です。
今回は、「FIRE後の寄付」についてお話ししたいと思います。
Youtubeで観たい方は以下のリンクから。

FIRE後の寄付の極意
今回は、「FIRE後の寄付」についてお話ししたいと思います。
こんなご質問をいただきました。
「日本は寄付をする人が少なく思えるですが、宗教的な問題が大きいと思います。キリスト教圏は寄付が多い感じです。Q太郎さんは寄付などされてますでしょうか?」
とのことです。
Q太郎はヤフー募金をよく利用していますね。余ったポイントなども全部入れています。
それで宗教的な問題ですが、寄付や人助けというと、よく宗教と結びつけて語られることがあります。「宗教を信仰している人の方が、道徳的で人助けをするのではないか」というイメージですね。
たしかに宗教という「組織」のレベルで見れば、大きな寄付や慈善活動を行っています。ただ、統計やデータを見てみると、宗教を信じている一個人が、無宗教の一般人よりも多く寄付をしたり人助けをしたりするという明確な証拠はありません。
実は、私たち人間は、宗教や教義といったもの以前に、血縁のない全く知らない他人に対しても寄付をしたり、助けたりする性質を持っています。困っている人を助けるという「助け合い」の精神は、人類が過酷な自然環境を生き延びていくために、大昔の歴史からDNAに組み込まれている本能的なものなんですね。
ようするに全員で協力しなければ生きていけないので、自分が生き延びるためにもやはり他人を助ける必要があるのです。
このような行動は、人間以外でも動物界でも見られます。もともと生物は助け合うように作られているのですね。
年収九十万円でも寄付ができる理由
では、本能として備わっているはずの「寄付」を、なぜ多くの人ができないのでしょうか。文化的な問題もあるとは思いますが、「自分にはまだ十分なお金がないから」「資産が五千万円、一億円になったら寄付しよう」と考える人が多いとは思います。
しかし現実は違います。いくら資産が増えようが、心に余裕がない人は絶対に寄付を行いません。前回の動画でお話ししたように、他人と自分を比較して「もっと稼がなきゃ」と焦っている人は、仮に一億円持っていても「自分はまだ足りない」と思っているので、他人に分け与えることなど到底できないわけです。他人に分け与える心の余裕が無いのですね。
そのことを証明する非常に面白い例があります。『年収90万円で東京ハッピーライフ』という本を書かれた大原扁理さんという方がいます。この方は月収八万円という低コストで、非常に豊かな生活を送っていたのですが、驚くべきことに、その少ない月収の中から定期的に寄付をしていたそうです。
なぜそんなことができるのか。それは彼が、資本主義の比較競争から完全に降りており、生活にも精神にも圧倒的な「余裕」があったからです。お金の多寡ではなく、「今の自分で十分に足りている」という心の平穏があるからこそ、自然と他人にお金を分け与えることができる。寄付の本質は、まさにここにあるとQ太郎は考えています。
ちなみに大原さんは人に何かを手伝ってもらった時に、宝くじを渡していると言います。それでいつも財布には宝くじを買って入れているのですね。
宝くじは期待値が低いので自分に買うのはお金の無駄だとは思いますが、人にあげる場合は「うまくいけば大金になる」という期待も上乗せされるので、喜ばれやすいというのがあります。
例えば友人に引越しを手伝ってもらったときに300円の現金を渡すのは生々しいですし、「こんだけ手伝ってたった300円かよ!」と逆に怒りが発生してしまう可能性もありますが、300円の宝くじだったら角が立ちませんし、笑いを取れたりもするそうです。
そんなわけで、自分のために買う分にはいろいろと宝くじも、使い方によっては捨てたものじゃないなとは思います。
日本で寄付が広がらない理由と「見られる」効果
世界的に見て、日本は「寄付後進国」と言われることがあります。これには寄付金額が税金の控除になる寄付先が少ないことなど税制の問題などもありますが、実は寄付や分かち合いの精神というのは、国の経済力や個人の経済力とは必ずしも比例しません。
たとえば、スリランカなどの経済的に決して豊かとは言えない国でも、貧しい人たちが日常的に寄付をする文化が根付いています。やはりここでも「国の経済力=寄付の量」ではないことがわかります。スリランカの場合は寄付などの善行をすることによって、カルマが増えて来世で良い事があるみたいな価値観がありますね。
また、文化人類学の世界で有名な話ですが、パプアニューギニアの東にあるメラネシアの島々には、古くから「贈与」の文化が深く根付いています。彼らは自分の富を独占するのではなく、他の島の人々と贈り物を交換し合うことで、社会の絆や信頼関係を構築してきました。
アフリカなんかも貧しいですが、もらったものをみんなで分けるというシェアの文化があります。なんかの本で読みましたが、アフリカで盗難にあった日本人が、酒場へ行ったら大勢の酔っぱらった現地人がいて、話を聞いてみたら盗んだお金でみんなにおごっていたみたいですね。
日本と違って娯楽施設なんてそんなにありませんし、お金を使える場所が酒場ぐらいしかないので、盗んだお金も自分のために使うというよりは、みんなにおごって分けてしまうそうです。それでお金を盗られた人は、「まあ、いいか」とお金を取り返すことをあきらめたそうです。
つまり、人類にとって誰かに「与える」という行為は、お金が余ったからやる慈善活動ではなく、社会の絆を保つための本能的なコミュニケーションの一つとも言えます。そもそも慈善活動が目的なら盗みなんてしませんしね。
とにかく自分がたくさん持っているなら、人に分け与えたい、寄付したいという本能が人間にはあるようです。
では、本能であるはずの寄付が、なぜ日本では広がりにくいのでしょうか。たしかに大地震とかあると寄付する人はたくさん出てきますが、日常的に寄付しているという人は少ないとは思います。
少し生々しい話になりますが、行動経済学の実験データにおいて「人は、他人の目から見られている環境のほうが、正しい行いをする」という結果が数多く報告されています。
日本人は昔から「陰徳」、つまり隠れて良いことをするのが美徳だと考える傾向が強いですよね。そのため、寄付をしたことを人に言ったりするのは品がないという考えに行きつきます。
ところがそうなると、人に見られていないので、寄付しても意味ないじゃん、商人欲求が満たされないじゃんみたいな話になってきます。
しかし海外だと、寄付したことを大っぴらに公表する金持ちは多いのですね。ビル・ゲイツみたいに財団を作ったりして、かなりの巨額を寄付しています。
Q太郎的には、寄付を増やすには、大っぴらに公開したほうが合理的でよい方法だと思っています。
現実的に寄付の総量を増やすためには、海外のように「金持ちが寄付したことをどんどん可視化して、人びとが大絶賛する」仕組みを作った方が効果的だと思いますね。
とにかく寄付をした人を褒めて気持ちよくさせる。周りから褒められて承認欲求が満たされる。寄付した方もされた方も、お互いにハッピーなわけです。
これが日本だと、大震災とかがあれば、みんなが寄付するので寄付しやすいですが、そうでない場合はなかなか寄付がおこなわれないですし、すぐに「偽善だ」「売名だ」ということになってしまって、日常的に寄付がしにくい環境になってしまっているとは思います。Q太郎的には、寄付している有名人はどんどん褒めた方が良いとは思いますね。褒めるだけならタダですしね。むしろ偽善だと叩くことになんの社会的メリットもないわけです。
そんな感じで、「偽善だ」「売名だ」と叩くのではなく、寄付をした人が堂々と気持ちよくなれるシステムを作ることこそが、社会全体にお金を回すための現実的なアプローチなんだと思います。綺麗事抜きに、人間は本来、誰かに与えることで自分自身がすごく気持ちよくなる生き物ですからね。そこをうまく突っついてやらないと、寄付文化が根付きにくいと思います。
ただやっぱり日本だと、「良い事をしたのを人にいうのは品がない」という文化なので、難しいところはありますね。
Q太郎と古本屋さんの「二万円の善意」
寄付が気持ちいいというお話に関連して、Q太郎自身の最近の体験談を少しお話しさせてください。
以前、オンラインの古本屋さんに自分が持っていた本を売ったときのことです。3つの段ボール箱に入れて送ったのですね。
本を送ってしばらくすると、古本屋の主人からメールで連絡がありました。なんと、送った本のページとページの間に、現金で二万円が挟まっていたというのです。
Q太郎は、いつその二万円を本に挟んだのか、全く覚えていませんでした。適当に段ボール箱に本を突っ込んでいたので、何が挟まっているとかの確認もしてませんしね。
つまり、古本屋さんが黙ってその2万円を自分の懐に入れてしまえば、Q太郎は一生気づくことはなかったわけです。
ところがその主人は、わざわざその二万円を現金書留にして、しかも送料は向こう持ちで送り返してくれたのです。本当に親切で、素晴らしい方ですよね。
そうしてQ太郎の手元に戻ってきた二万円ですが、これは古本屋さんの「善意」によって戻ってきたお金です。これをそのまま自分の財布に入れて、どうでもいい日常の消費に使ってしまうのは、なんだかとても申し訳ないような、悪い気がしました。
やっぱり人間って、こういう状況で「二万円もうかった。ラッキー!」とはなかなかならないのですね。しかもその二万円を本に挟んだこと自体覚えていないので、正直受け取っていいお金なのかどうかも迷いました。
それでその時、ちょうど能登半島地震が起きた直後でしたので、「このお金は寄付に回そう」と思い立ち、二万円全額を震災募金に寄付しました。
寄付をした後、古本屋さんに「送っていただいたお金は、こういう理由で全額寄付させてもらいました。本当にありがとうございました」と連絡を入れました。すると、古本屋さんもそのことをすごく喜んでくれたのです。
古本屋さんの善意から始まり、そのお金が被災地への寄付という形で役立ち、古本屋さんもQ太郎も、とても温かくてハッピーな気持ちになれた。金額としては二万円ですが、Q太郎にとっては、お金以上のものすごく価値のある「気持ちのいい体験」になりました。仮に自分の消費に使っても、なんの記憶にも残りませんしね。
今回のまとめ
それでは、今回のまとめです。今回は「FIRE後の寄付と、心の余裕」についてお話ししてきました。
まとめのその一。寄付は金銭的余裕ではなく、心の余裕で行うものです。月収八万円でも精神に余裕があれば寄付はできますし、逆に資産が一億円あっても心に余裕がなければ寄付はできません。寄付ができるかどうかは、あなたが「足るを知っているか」のバロメーターにもなります。
まとめのその二。人は歴史上、もともと助け合う生き物です。寄付をすることで自分が気持ちよくなるというのは、人間のDNAに刻まれたご褒美のようなものです。偽善でも自己満足でも構いません。自分が気持ちよくなるために寄付をする、それでいいと思います。むしろ日本は善意を隠すのが美徳とされているので、寄付文化が根付きにくい環境にあるとは思います。金持ちや有名人の寄付はどんどん褒めていった方が良いとは思いますね。
まとめのその三。日常の小さな善意を、寄付という形で社会に回してみましょう。古本屋さんが送り返してくれた二万円のように、思いがけないお金やポイントが入った時は、それを自分の消費に使うのではなく、誰かのために使ってみる。ヤフー募金などを使えばポイントでも簡単に寄付ができます。自分の消費に使っても、何の記憶にも残りませんしね。
資産形成を頑張ってこられた皆さんも、もし目標を達成して心に平穏が訪れたら、ぜひ自分の「気持ちよさ」のために、小さな額からでも寄付を試してみてください。きっと、通帳の数字が増えるのとは全く違う、とても温かい幸福感を得られるはずです。

