予算オーバーでも欲しい物を買う?【FIRE/老後】

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hoshii kau

新NISA一括投資→即毎月定率取り崩し運用中のQ太郎です。

今回は、予算オーバーでも欲しい物を買ったほうがいいのかどうかについてです。

本記事をYouTube動画で観たい方はこちらのリンクから。

収支赤字でも欲しい物を買う?

こんなご質問をいただきました。

「いつも楽しい動画をありがとうございます。『欲しい物は買った方がいい』ということについて質問があります。

『欲しい物を買う』という事自体は別に良いのですが、その理由の一つに「いつ死ぬかわからないから、死ぬ時に後悔しない為に欲しい物を買っておいたほうがいい。お金はあの世に持っていくことができない」というのがあるかと思います。

「いつ死ぬかわからない」という理由だと、予算オーバーの場合でも好きな物を買った方が良いということにはならないでしょうか?

ここでいう予算オーバーというのは10億円の豪邸を買うとかいう極端な話ではなく、例えば一か月のお小遣いを3万円と決めた時に欲しい物が4万円だったとしたら、それでも買うかどうかという話です。

「いつ死ぬかわからない」であれば、正解としては買うのが正しいのではないでしょうか?

このあたりの線引きがよくわかりません。ここで言う欲しい物は「自分にとって本当に欲しい物」であって、「作られた欲望」ではないことを前提にお願いします。」

とのことです。

まとめると、宣伝とかで洗脳されて欲しいと思わされているものではなく、自分の価値観に合った「本当に欲しい物」が、一か月に使えるお小遣いの予算を超えてしまった、この場合買った方がいいのかどうかという話ですね。

まあ、「いつ死ぬかわからない」という観点だと、買った方がいいのは確かにそうだとは思います。

単に衝動的に欲しくなって、買ったあとはほとんど使わないで放置みたいなものだったら買わなくていいですが、それを買わなかったことで死ぬ前に後悔するレベルのものであれば、買った方が良いとは思います。

それで考えてほしいのが、お小遣いが3万円とすでに決まっているのに、なぜ4万円のものを欲しくなったかということです。

すでに上限が設けられている状態だと自分でわかっているのに、それを超えるものが欲しいという話だと、やっぱり衝動害っぽい感じはありますね。

ご質問の中で「10億円の豪邸を買うとかいう極端な話ではなく」と書かれていますが、予算をオーバーしている時点で10億円も4万円もおなじことだとは思います。それはようするに手の届かないものを買おうとしているわけです。

予算オーバーという意味では一緒なのに、なぜ10億円の豪邸は選択肢から消えるのに、4万円の欲しい物は選択肢から消えないのかということですね。たんに、「もうちょいで買えそうだから買ってもいいんじゃないか」という判断が入っているとは思います。

ようは10億円は手が届かないけど、4万円なら手の届きそうな範囲だから買ってしまおうという判断ですね。先ほども述べたように予算オーバーしている以上、手が届かないという意味ではどちらも同じです。

逆にいうと、10億円の「本当に欲しい物」があった場合、予算オーバーしていますが買うでしょうかという話になると、おそらくは買わないわけです。ようはダブルスタンダードになっているのですね。

そんなわけで、予算が3万円だったら、それがいまのその人のキャパシティーなので、その範囲内で買う必要があるとは思います。予算を超えたものは、すでにキャパシティーを超えた買い物になっています。

本チャンネルで何度も出てきているドイツの哲学者であるショーペンハウワーの著書『幸福について』では、「誰もが自分が手に入れられるかもしれないものを視野に入れ、要求はその射程内にある」と述べています。

人の欲しい物というのは、手が届く範囲のもので、手に入りそうと思えば幸せに感じるし、手に入れるのが困難であれば不幸せに感じます。そして射程外のものは、その人の精神にまったく影響を及ぼさないということですね。

ここでいう「手に入れるのが困難」は4万円の欲しい物で、射程外というのは10億円の豪邸ですね。

それでショーペンハウワーは財産を「外的要因」、要求を「内的要因」として分けていて、仮にその人が経済的に没落、つまり外的要因が縮小した場合、しばらくすると内的要因の欲求も縮小するといいます。

つまり、外的要因の財産が縮小してお小遣いが4万円から1万円になった場合、一か月に1万円しか使えなくなりますので、その範囲内か、それに近い範囲のものを欲しがることになります。つまり外的要因の縮小に合わせて、内的要因の欲求も縮小するのですね。

そう考えていくと、実際に人間が本当に欲しい物なんてほとんどないということになってしまうわけで、たんに外的要因である財産に合わせて、内的要因の要求が大きくなったり小さくなったりするわけです。

大富豪であれば、外的要因の財産が大きいので、それに合わせて内的要因の要求も大きくなるわけです。手が届く不動産をポンポン買ったりとか、そういうことをするわけですね。

けっきょく欲求というのは、財産の大きさに比例して、要求が大きくなったり小さくなったりしているという、つねに変化しているものということになります。絶対無二で本当に欲しいというものはないのですね。

たんに手が届きそうなものに対して要求が働いているだけです。そう考えれば、これも「つくられた欲望」ともいえます。

そんなわけで、その4万円のものがほしいというのは単に手が届きそうだからなだけで、仮にそれが10億円で売り出されていた場合は、もはや外的要因の射程外なので、欲しいともなんとも思わないわけです。手が届く範囲だから要求が働いてしまうわけです。

じゃあどうすればいいかといえば、欲しい物なんかほとんどないとブッダのごとく悟りを開いてしまうか、やっぱりどうしても欲しいのであれば、3万円をそのまま貯金して、翌月に1万円足して4万円にするなど、小遣いの範囲内でやりくりしたほうがいいでしょう。

あくまですべてのものは、手が届きそうだから欲しくなるわけで、あくまでも外的要因の範囲内で生み出された欲望なのですね。ゲームが好きでも、新作ゲームが1本5億円で売られていたら欲しいという欲求も湧いてきませんし、そもそも買う事も考えないでしょう。

欲求なんてそんなものなのです。手が届くから欲求が湧いてくるのです。

そんなわけで、欲求はその程度のものでしかないので、欲しいのであれば小遣いの範囲内でやりくりしたほうがいいとは思います。

まとめ

そんなわけでまとめると、

・「いつ死ぬかわからない」という観点だと、買った方がいいのは確かにそのとおり。

・ただ人というのは、外的要因である財産の大きさによって、内的要因である要求の大きさが変化する。

・手が届く、もしくは届きそうなものに対しては、内的要因である要求が働く。範囲外のものに対しては、気に留めることもしない。(小遣い3万円だと4万円のものは欲しくなるけど、おなじものが10億円だったら考えもしなくなるという話ですね。これはたんに外的要因の大きさで、要求の大きさが決まっているからです)。

・欲求は不変のものではなく、財産の大きさで変化するもの。手が届きそうだから欲しくなる。まったく届かないものには無関心。(けっきょく欲求というのはつくられているわけです。5億円のゲームがあったとしても、ほとんどの人は買おうかどうか考慮すらしません)。

・欲しい物というのはそもそも外的要因で移り変わっていくものと悟りを開くか、もしくは3万円を貯金して、翌月に1万円足して4万円にして買う。なんにしろお小遣いの範囲内で。

となります。

そんなわけで我々の「欲しい物」とやら自体も、たんに外的要因である財産の大きさで、要求の大きさが変わっているだけという話で、そこから大きく逸脱したものを欲しいとは思わないのですね。資本主義社会において欲しい物というのは、そのていどのものなのです。

そんなわけで、現実路線としては、要求の大きさをお小遣いの範囲内に収めたほうがいいので、お小遣いの範囲内でやりくりして買ったほうがいいとは思います。