
Q太郎のお金の哲学です。
今回は、「お金は感謝の量」が本当なのかについてです。
Youtubeで観たい方は以下のリンクから。
お金は「感謝の量」?
うちのチャンネルの傾向として、お金は「道具です」とか、「商品券です」みたいな話をすると、なぜか登録者が減るんですよ(笑)
でもQ太郎からすると、お金は「道具」や「商品券」というのは、結構当たり前の話なんですよね。だって経済って、「ヒト・モノ・カネ」の三つが揃わないと回りません。お金だけあっても意味がないんです。
以前も言いましたけど、例えばですよ。この世に自分しかいないとします。そこに100億円置いてあったとします。でも他に誰もいない。お店もない。会社もない。農家もいない。工場もない。ようするに交換先がない。そんな世界で100億円持っていても、何の意味もありませんよね。せいぜい燃やして暖を取るぐらいです。
つまり、お金って単体では価値を持たないんです。
誰かがいて、何か物があって、初めて交換できる。だからQ太郎は昔から、お金は商品券みたいなものだと思っています。便利な商品券です。それ以上でも、それ以下でもありません。
お金は感謝の量?
それで今回もまた登録者が減りそうな話をしますが、よく「お金は「感謝の量」」とか言う人いますでしょう。Q太郎的には、お金は「道具」や「商品券」でしかないので、「感謝の量」とか言って、なにかありがたいもののように祭り上げてしまうのって、あまり良いことだと思わないのですね。
お金が感謝の量だったら、特殊詐欺とかどんだけ感謝されてるんだって話なわけで。強盗殺人犯や、あくどいことして儲けたやつは、どんだけ感謝されているんだって話なわけで。
お金を特別扱いするのって、本当に良くないと思うのですよ。欺瞞を生みますしね。
そんなわけで、ようこそQ太郎のお金の哲学チャンネルへ。賢く資産形成をしつつ、お金に悩まされない生存戦略を発信していますので、ラジオみたいな感じで気楽に聞いていただければと思います。
お金は交換先があって初めて意味を持つ
それで、もう少し身近な話をしますと、「お金、いくらでもあげるよ。でも何かと交換したらダメだよ」と言われたらどうでしょうか。1億円もらっても、10億円もらっても、それで食べ物を買えない。家賃も払えない。電気代も払えない。ゲームも買えない。旅行にも行けない。そうなったら、そのお金はただの紙か、ただの数字です。
つまり、お金の価値って、お金そのものに宿っているというより、「これを出せば、誰かが何かと交換してくれる」という社会的な約束にあるんですね。もっと言えば、みんなが「これは価値がある」と信じているから価値がある。
だからQ太郎は、お金を「商品券」に近いものだと思っています。すごく便利な商品券です。世界中で使えるし、保存もできるし、投資すれば増える可能性もある。かなり優秀な商品券です。でも、商品券は商品券なんですよ。
ここを間違えると、人間が商品券を使っているのではなく、商品券に人間が使われるようになります。本来は、お金を使って人生を良くするはずなのに、いつの間にかお金を増やすことそのものが人生の目的になってしまう。これ、結構怖いことだと思うんですね。
例えば、「投資で一億円儲けた」と聞くと、なんかすごい話に聞こえますよね。でもこれを、「投資で一億円分の商品券を儲けた」と言い換えると、急にちょっとしょぼく感じませんか(笑)
「100万円をたった半年で一億円に!」だと、ものすごい成功物語に聞こえます。でも、「100万円をたった半年で一億円分の商品券に!」だと、なんか一気に現実に戻るんですよね。
この「ちょっとしょぼく感じる」という感覚が、お金との距離の取り方には結構大事なんじゃないかと思うんです。お金を軽視するわけではありません。ただ、神様みたいに見上げるのではなく、「便利な交換券」として、あるべき位置に戻してあげる。その方が、お金に振り回されにくくなる気がします。
お金は「感謝の量」なのか?
それで今回も、また登録者が減りそうな話をします(笑)
よく、「お金は感謝の量です」と言う人がいるじゃないですか。成功者とか、経営者とか、インフルエンサーとかが言っているイメージがあります。たぶん聞いたことがある人も多いと思います。
もちろん、言いたいことはわかるんです。誰かの役に立った。その対価としてお金をもらった。だからお金は感謝の表れだ、という話ですね。これは一部では正しいと思います。例えば、すごく良いサービスを受けて、「ありがとう」と思ってお金を払うことはあります。おいしいラーメンを食べて、「これは払ってよかったな」と思うこともあります。美容師さんに髪を切ってもらって、「助かったな」と思ってお金を払うこともあります。
Q太郎はめったにタクシーは使いませんが、タクシーを使う時は、日本だろうと台湾だろうと、できるだけチップを渡すようにしています。チップと言っても、単にお釣りを受け取らないとか、ちょっと上乗せして払うとか程度ですけどね。大した金額ではないですし、「コーヒー代にでも」と言って渡す感じです。その方がお互いに上機嫌になれますし、上機嫌な人が多い方が世の中は平和になります。みんなギスギスしているより、その方がいいじゃないですか。
なので、「お金が感謝の表れになる場面」は確かにあります。そこはQ太郎も否定しません。ただですね。ここでQ太郎がどうしても納得できないのは、「お金は感謝の量」と言い切ってしまうところなんです。そこまで言うと、ちょっと話がおかしくなってくるんですよ。
特殊詐欺は感謝されているのか
例えば特殊詐欺です。特殊詐欺グループって、何千万円とか、場合によっては何億円というお金を奪ったりしますよね。もしお金が感謝の量なら、特殊詐欺グループはものすごく感謝されていることになります。いや、そんなわけないですよね。むしろ逆です。感謝どころか、人生を壊された人もいるわけです。
強盗も同じです。人を脅して大金を奪った。じゃあそのお金は感謝の量なのか。違いますよね。完全に奪っているだけです。もっと身近に言えば、ぼったくり商法もそうです。高齢者に不安を煽って、必要のない高額な商品を売りつける。これで大金を稼いだとして、それは感謝の量でしょうか。むしろ、不安や恐怖をお金に変えているだけかもしれません。
だから、「お金が集まったという事実」と、「人から感謝されたという事実」は、必ずしも一致しないんです。もちろん、感謝されながらお金を受け取ることはあります。でも、「お金が多い」から「感謝も多い」とは限らない。ここをごちゃ混ぜにすると、かなり危ないと思うんですね。
これ、犯罪みたいな極端な例だけじゃなくて、日常の買い物でもありますよね。
例えば、旅行先で観光地価格の食べ物を買ったとします。普通の場所なら500円くらいのものが、観光地だと1500円くらいすることがあります。もちろん場所代もあるので全部が悪いとは言いませんが、食べ終わったあとに、「まあ、こんなものか……」ってなることもありますよね。
お金は払っています。でも、心から感謝しているかと言われると、ちょっと微妙です。観光地の物の値段が高いことで感謝している人、あまりいないんじゃないでしょうか?トルコの観光地とか、トルコアイス一つで1,000円超えてますしね。
あるいは、ネットで評判の商品を買ってみたけど、届いてみたら全然期待外れだった、みたいなこともあります。「口コミすごかったのに、これか……」ってなることありますよね。この場合も、お金は払っています。でも、そのお金は感謝というより、期待とか、広告とか、雰囲気に引っ張られて払ったお金かもしれません。
つまり、お金って感謝だけで動いているわけじゃないんです。期待で動くこともある。不安で動くこともある。見栄で動くこともある。焦りで動くこともある。だから、お金をそのまま「感謝の量」と見てしまうと、人間のかなり複雑な部分を見落としてしまう気がするんですね。
お金は善意だけでは流れない
『正直不動産』という漫画に、「嘘つきと悪い奴だけ儲かるようになっている」みたいなセリフがあります。かなり強い表現ですし、もちろん世の中の商売人がみんな悪いという話ではありません。ただ、「お金は感謝の量です」ときれいに言い切るよりは、現実の一面を見ている気もするんですね。
世の中には、本当に人の役に立って稼いでいる人もいます。一方で、人の不安につけこんで稼いでいる人もいます。わかりにくい契約で手数料を取る人もいますし、情報弱者を相手に、たいした価値のないものを高額で売る人もいます。つまり、お金というのは、感謝だけではなく、恐怖、欲望、勘違い、焦り、見栄、無知、いろんなものによって動いているわけです。
ここを見ないで、「お金は感謝の量です」と言ってしまうと、ちょっときれいごとになりすぎる気がします。もちろん、きれいごとが全部悪いとは思いません。でも、お金の話で現実を見ないと、結局またお金に振り回されてしまうんですね。
なぜ「感謝の量」と言いたくなるのか
それで、Q太郎が少し思うのは、「お金は感謝の量です」と言う人って、もしかすると自分の中の後ろめたさを消したいのかもしれないということです。お金をたくさんもらうことに対して、どこかで罪悪感がある。だから、「これは感謝なんです」と言い換えることで、自分を納得させている部分もあるんじゃないかと思うんですね。
例えば、かなり高額なセミナーを売っている人がいたとします。内容が本当に良ければもちろん問題ないんですが、どこかで本人も「この値段、ちょっと高すぎるかな」と思っている。でもそこで、「いや、これはお客さんからの感謝の量なんです」と言い換えると、少し気持ちが楽になるわけです。
あるいは、情報商材みたいなものでもそうですね。普通に考えたら、そこまで高い値段を取る内容なのかなと思うものでも、「これは相手の人生を変える価値提供なんです」「お金は感謝の量なんです」と言えば、自分の中で正当化しやすくなる。
もちろん、本当に価値のある講座やサービスもあります。そこは否定しません。ただ、「感謝」というきれいな言葉を使うと、本当は「高く売っている」という話が、いつの間にか「感謝されている」という話にすり替わってしまうことがあるんですね。
ようするに、値段の高さを、感謝という言葉で包んでしまうわけです。
これをやると、売っている側も気持ちが楽になりますし、買う側も「これはありがたいものなんだ」と思いやすくなる。
でも、そこで一回立ち止まって、「それは本当に感謝なのか。ただ高く売っているだけなのか」は、分けて考えた方がいいと思うんです。 さっきの観光地価格の話と同じですね。高く売れているからといって、それがそのまま感謝の量とは限らない。雰囲気や限定感で払っているお金もあるわけです。
もちろん、全員がそうだと言うつもりはありません。本当に人に価値を提供して、その結果としてお金を受け取っている人もいます。そういう人が「感謝の量」と言うのは、実感としてそうなのかもしれません。ただ、それを普遍的な真理みたいに言ってしまうと、特殊詐欺やぼったくりや悪徳商法まで、全部「感謝の量」になってしまうんです。
むしろ、そういう言葉を使う人は、ある意味ではまだ優しさがあるのかもしれません。本当に何も感じていない人なら、わざわざ「感謝」なんて言葉を使わないでしょうからね。
例えば、もしその人がお金のことを完全に「奪うもの」だと思っていたら、そんなきれいな言葉をわざわざ作る必要がないんですよ。「取れるところから取ればいい」「相手が納得したならそれでいい」「売れたんだから勝ち」くらいで終わりです。そこに感謝も何もありません。
でも、「お金は感謝の量です」と言いたくなるということは、少なくともその人の中に、「ただ儲けているだけでは、ちょっと気持ちが悪い」という感覚が残っているのかもしれません。だから、稼ぐことをきれいな言葉で包みたくなる。
ただ、その優しさがあるからこそ、お金を必要以上にきれいなものに見せようとしてしまう。そこが、Q太郎にはちょっと危うく見えるわけです。
感謝はお金がなくても成立する
そもそも感謝されたいなら、無料でもいいんですよ。道案内だってそうです。落とし物を拾って届けるのもそうです。電車で席を譲るのもそうです。家族のためにご飯を作るのもそうです。友人の相談に乗るのもそうです。お金は一円も発生しなくても、感謝は発生します。
逆に、お金をたくさん受け取っても、感謝されないことはあります。高いお金を払ったのに、嫌な気持ちになった経験って、誰でもあると思うんですよ。高い店に行ったのに接客が悪かったとか、高額なサービスを買ったのに期待外れだったとか。お金を払った側が「なんか損したな」と思うこともありますよね。そこに感謝はありません。
つまり、感謝とお金は重なる部分もありますが、同じものではありません。感謝は人間の心の動きです。お金は交換の道具です。ここを混ぜてしまうと、お金が妙に神聖なものに見えてきてしまうんですね。
でも、そもそも感謝って、お金という尺度で測るものなのかな、と思うんですよ。
「たくさん払ったから、たくさん感謝している」
「たくさん稼いだから、たくさん感謝されている」
そう言ってしまうと、感謝という人間的なものが、いつの間にか金額に置き換えられてしまう。そこに、Q太郎は少し違和感を覚えるんですね。
お金はもともと便利な交換手段だった
以前の動画でも言いましたが、お金ってもともとは交換を便利にするための道具なんですよね。昔は物々交換がありました。魚を持っている人が、米を持っている人と交換する。でもこれって結構大変なんです。魚を持っている人が米を欲しがっていて、米を持っている人も魚を欲しがっている。この条件が合わないと交換できません。
そこで、みんなが受け取ってくれる共通の交換手段があると便利になります。貝殻だったり、金属だったり、米だったり、塩だったり、地域や時代によっていろいろありますが、要するに「これならあとで別のものと交換できるよね」というものです。英語の salary、つまり給料という言葉も、塩を意味する salt と関係があるという話があります。昔の人にとって塩は保存にも必要で、かなり重要なものだったわけですね。
ここで大事なのは、お金や貨幣は、もともと人間の交換を助けるための道具だったということです。人間が暮らしやすくするためのものです。ところがいつの間にか、その道具の方が主人みたいになってしまう。道具のために人生を削る。商品券のために健康を壊す。数字を増やすために、人間関係や時間や自由を全部差し出す。これは、やっぱりどこかで主従が逆転していると思うんです。
人間は商品券を使う側
Q太郎がいつも言っているのは、結局ここなんですね。人間は商品券を「使う側」です。商品券に「使われる側」ではありません。お金を稼ぐことは大事です。資産形成も大事です。新NISAも、投資信託も、現金管理も、全部大事です。お金がなければ、選択肢が減りますし、不安も増えます。だからお金を軽視しろという話ではありません。
でも、その一方で、お金を神格化してはいけないと思うんです。神様のような特別なものだと思ってはいけない。「お金は感謝の量です」と言って、お金にきれいな光を当てすぎると、いつの間にかお金そのものが立派なものに見えてきます。でも、お金は道具です。便利な道具です。有効期限の無い商品券です。ただ、それ以上のものではありません。
包丁と同じです。料理に使えば、人を喜ばせる道具になります。でも使い方を間違えれば、人を傷つける道具にもなります。お金も同じです。人を助けることもできるし、人を壊すこともできる。感謝を生むこともあるし、恨みを生むこともある。
例えば同じ1万円でも、友人が本当に困っているときに「これで少しご飯でも食べて」と渡したら、その1万円はかなり温かいお金になると思うんです。相手も「助かった」と思うでしょうし、そこにはたしかに感謝があります。
でも同じ1万円でも、人を不安にさせて、高額な保険や、手数料の高い投資信託や、必要のない商品を買わせた結果として得た1万円なら、まったく意味が違いますよね。金額は同じ1万円です。銀行口座に入れば、どちらも同じ数字です。でも、その1万円が通ってきた道は全然違うわけです。片方は人を助けていて、もう片方は人の不安につけこんでいる。
つまり、お金そのものに最初から「感謝」が入っているわけではないんです。そのお金が、どういう流れで動いたのか。誰かを助けたのか。それとも誰かを追い詰めたのか。そこを見ないといけないと思うんですね。
だから「お金そのものが感謝」なのではなく、「お金をどう受け取ったか」「お金をどう使ったか」が大事なんだと思います。お金はあくまで、その途中で使われる道具です。主役はお金ではなく、人間の行動の方なんですね。
お金を神から道具に戻す
そんなわけでまとめると、Q太郎は「お金は感謝の量です」という言葉に、どうしても違和感があります。感謝とお金が重なる場面はあります。でも同じものではありません。お金は感謝でも、愛でも、人格でも、人生の価値でもありません。お金は交換の道具です。商品券です。
だからこそ、お金を増やすこと自体は悪くありません。むしろ、ちゃんと増やした方がいいと思います。お金があれば、選択肢が増えます。嫌な仕事から距離を取れるかもしれませんし、家族を助けられるかもしれませんし、自分の時間を取り戻せるかもしれません。
でもそれは、お金があなたの主人だからではありません。お金が「道具」として役に立つからです。お金そのものが、あなたを守ってくれる神様になるわけではありません。その道具をどう使うかは、結局あなた自身にかかっているんですね。
今日の話をしていて、Q太郎もちょっと思ったんですが、皆さんは「お金は感謝の量」という言葉、どう感じますかね。しっくり来るのか、それとも少し違和感があるのか。よかったらコメントで教えてください。
数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。

