「老後の楽しみ」で無駄遣いを合法化する人たち|積みゲーは未来の宿題

「老後の楽しみ」で無駄遣いを合法化する人たち|積みゲーは未来の宿題
【毎日17時更新中!】たまに午前中にも追加投稿します。買ったまま遊んでいないゲームを「老後の楽しみ」と呼んでいませんか。今回は、積みゲーが現在の買い物を正当化する免罪符になり、未来の自分へ遊ぶ手間を押しつける宿題へ変わる仕組みを考えます。・...

こんなコメントをいただきました。

「ゲームを買ってそのまま積んで、「老後の楽しみ」と言う人がいますが、まず老後に遊ぶことはないですね。今20年前のゲームを遊ぼうと思わないのと同じだと思います。」

とのことです。ありがとうございます。

ゲームを買ったけれど、まだ遊んでいない。

そんな積みゲーが増えてきたとき、よく使われる言葉があります。

「老後の楽しみに取っておく」

いまは仕事が忙しい。ほかにも遊びたいゲームがある。だから、時間のできる老後にゆっくり遊ぶ。

こう言われると、積みゲーも無駄遣いではなく、老後へ向けた準備に見えてきます。

老後資金だけでなく、老後の娯楽まで先に用意している。ゲームだけじゃなくて、本とかもそうですね。

かなり計画的な人にも見えます。

しかし、Q太郎はこれ、老後の楽しみを用意しているというより、現在の買い物を合法化するために、未来の自分を利用しているだけではないかと思うのですね。

そもそも、質問者さんのおっしゃるとおり、何年も前に買ったゲームを、あとから遊ぶのは結構つらいです。

買ったときには面白そうだったゲームが、未来の自分にとっても面白いとは限りません。技術の進歩もありますし、そもそも昔のゲームが動くのかどうかという問題もあります。昔のOSで動いていたゲームが、今のOSで動くとは限りませんしね。

あと趣味とか、集中力とか、体力とか、老後だといろいろ変わっているはずです。はっきり言って未来の自分は別人です。

それなのに、現在の自分は、「老後の自分も、きっとこれを遊びたいはずだ」と勝手に決めています。

そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に飲み込まれないための生存戦略を独自の視点で解説します。

今回は「老後の楽しみで無駄遣いを合法化する人たち」を深掘りしていきます。

・三つの話

今日は大きく三つ話します。

一つ目、「老後の楽しみ」という言葉が、なぜ買い物の免罪符になるのか。

二つ目、なぜ現在の欲望を、そのまま未来へ投影してしまうのか。

三つ目、積みゲーが楽しみではなく、未来の宿題へ変わることです。

最後に、楽しみは本当に備蓄できるのか、Q太郎なりの見立てを置いて終わります。

・一つ目・老後の楽しみという免罪符

それでは一つ目、「老後の楽しみ」という言葉が、なぜ買い物の免罪符になるのかです。

積みゲーが一本あるだけなら、たいした問題ではありません。

しかし、まだ遊んでいないゲームが10本、20本とあるのに、新しいゲームを見つけると、また欲しくなります。

コレクションしているとか、何か目的があるのならいいのですが、宣伝とかまわりとかにつられて、何となく買っているという場合もあります。

そして、買ったあとで少し罪悪感が出てきます。

また遊ばないゲームを買ってしまった。

その罪悪感をきれいに消してくれるのが、「老後の楽しみ」という言葉です。

これは無駄遣いではない。いま遊べないだけで、未来には遊ぶ。楽しみを先に確保しただけだ。

こう考えれば、使ったお金は浪費ではなく、老後への投資になります。

かなり便利な言葉です。

ただ、ゲームを買った時点で手に入れたのは、楽しみそのものではありません。

ゲームを遊べる権利です。

その権利を使って、本当に楽しめるかどうかは、未来の自分にしか分かりません。

現在の自分が確実に受け取れるのは、買った瞬間の快感です。

ライブラリへ一本追加された。限定版を確保できた。セールで安く買えた。

この満足は、現在の自分が受け取ります。

一方、何十時間もかけて遊ぶ手間は、未来の自分へ送られます。

現在の自分が買い物を楽しみ、未来の自分に消化させる。

これを老後へのプレゼントと呼んでよいのかは、少し怪しいと思うのですね。相手が欲しいかどうかを考えないで送るものが、果たしてプレゼントと言っていいのかどうかという問題です。

・二つ目・今の欲望を未来へ投影する

二つ目、なぜ現在の欲望を、そのまま未来へ投影してしまうのかです。

以前の動画で、人は「今の気分」で未来を考えてしまうという話をしました。

満腹のときには、もう絶対に食べすぎないと思います。

二日酔いの朝には、もう二度と酒を飲まないと誓います。

しかし、おなかが減れば食べたくなりますし、気分が戻ればまた酒を飲みます。

未来の自分には、未来の身体と気分があります。

それでも我々は、現在の状態を未来まで延長して考えます。

ゲームを欲しがっているときも同じです。

いま、このゲームがものすごく面白そうに見える。

だから老後の自分も、きっと遊びたいに違いない。

現在の欲望を、そのまま20年後や30年後へコピーしてしまうのですね。現在の趣味や気持ちが、未来永劫続くと思い込んでいるわけです。

しかし、老後の自分は、現在の自分を年齢だけ増やした人物ではありません。

好みが変わっているかもしれません。長い物語を追う集中力がなくなっているかもしれません。画面を見ると目が疲れ、細かい文字を読むのがつらくなっているかもしれません。

そもそも、ゲーム自体に興味がなくなっている可能性もあります。

若いころには、時間さえあれば一日中ゲームをしたいと思っていた。

ところが実際に時間ができると、ゲーム機の電源を入れることすら面倒になる。

FIREして仕事辞めて、ゲーム三昧で暮らせたら楽しいだろうと思って、実際FIREしてゲームを毎日やったら、しばらくして飽きちゃったみたいな感じですね。仕事で忙しくて、ゲームがしたいときの気持ちで、未来を考えてしまっているからです。その気持ちがずっと未来も続いていくという勘違いなのですね。

忙しいときには、「時間さえあれば遊ぶのに」と考えます。

しかし、時間ができたからといって、そのときの欲望まで戻ってくるわけではありません。

話は少しそれますが、昔のゲームを遊び直すと、思い出の中ではものすごく面白かったのに、いま遊ぶと移動が遅かったり、セーブする場所が少なかったりして、こんなに大変だったのかと思うことがあります。

初代ドラクエも、今遊ぶときつい。町の人に話しかけるのに、コマンドで方向を指定しないといけないのですね。

ゲームが変わっただけではありません。

自分も変わっています。

思い出の中の自分と、いま操作している自分が違うのですね。

まして、まだ遊んだこともないゲームを、未来の自分が喜ぶと決めることはできません。

未来の自分は、自分に一番近い他人です。

その人へ贈り物をするつもりが、いらない物を大量に送りつけている可能性があります。

・三つ目・楽しみが未来の宿題へ変わる

三つ目、積みゲーが楽しみではなく、未来の宿題へ変わることです。

積みゲーは、増えすぎると意味が変わります。

まだ、これも遊んでいない。あれも途中で止まっている。せっかく買ったのだから、いつか最後までやらなければならない。

楽しむために買ったはずのゲームが、未処理の仕事になります。

それで、老後に自由時間ができても、その時期に好きなゲームを選ぶのではなく、過去の自分が買ったゲームを消化する生活になるわけです。

老後の自分は、現在の自分が作った消化リストに従って働くのですね。それを「老後の楽しみ」と言っていいのかどうか、微妙なところです。そのときはそのときの楽しみがあるので、よけいなお世話になる場合が多いわけです。本当に楽しめるのかと。

しかも、ゲームには旬があります。

発売されたころには、友人やネット上の人たちが同じゲームの話をしています。攻略法や感想が飛び交い、内容を共有できます。

何年もたってから一人で遊ぶと、ゲームそのものは同じでも、その周囲にあった熱気は残っていません。

オンラインサービスが終わることもあります。対応するゲーム機が壊れることもあります。新しい環境では起動しにくくなることもあります。

ソフトは保存できても、そのソフトを楽しめる環境までは、同じ状態で保存できないのですね。

テレビ番組を「老後の楽しみ」のために、毎日ビデオ録画しているようなものですね。そのときにはビデオデッキがない。

未来に楽しみとやらを先送りしても、たぶんその時期には、別人になった自分に、そのときの環境で使えないようなものを送り付けている場合も多いとは思います。

・まとめ・楽しみは備蓄できない

最後に、楽しみは本当に備蓄できるのか、Q太郎なりの見立てを置きます。

Q太郎は、楽しみは備蓄できないと思っています。

物理的な物を備蓄できたとしても、それを楽しむ好奇心、集中力、体力、そのときの気分までは保存できません。

現在の自分が欲しいものを買っておけば、未来の自分も喜ぶ。

そう考えるのは、未来の自分を現在の自分と同じ人物だと思い込んでいるからです。諸行無常の仏教的には、かなり怒られる考え方ですね。

実際の未来の自分は、現在の自分とは違う他人です。

その人には、その人が見つけたゲームや、そのときに興味を持った遊びがあるでしょう。

それなのに現在の自分というクソ野郎が、大量の積みゲーを残し、「これはお前の老後の楽しみだから、ちゃんと遊べ」と言う。「ふざけんな」と未来の自分は言いたい。

それはプレゼントというより、宿題です。

老後へ残したいのは、遊んでいないゲームの山ではありません。

老後の自分が、そのとき欲しいものを自由に選べる余白です。

買うことを我慢し続けろという話でもありません。

いま本当に遊びたいなら、買って遊べばよいと思います。

しかし、「いつか遊ぶ」「老後に遊ぶ」という言葉が出てきたときは、そのゲームが欲しいのではなく、買う行為を楽しみたいだけではないかと、一度考えてもよいでしょう。

いま遊ぶために買うのか。

それとも、未来の自分を口実にして、現在の欲望を通そうとしているのか。

老後の楽しみという言葉は、未来を大切にしているように見えて、現在の無駄遣いを合法化する、とても便利な言葉とも言えますね。ゴミを捨てずに、未来へ押し付ける行為になったりする場合もあります。

皆さんの家には、「老後に楽しむつもり」で残しているゲーム、本、映画、趣味の道具などがありますか。それをいまでも本当に楽しみたいと思っているでしょうか。よろしければコメント欄で教えてください。全部読ませていただいています。

数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。

ではまた、Q太郎でした。この動画を気に入っていただけましたら、高評価・チャンネル登録をよろしくお願いいたします。

タイトルとURLをコピーしました