
こんなご質問をいただきました。
「身近な人と比較しても意味がないというのは、理屈では分かりますが、やはり難しいです。
同期や友人、知人と比べてしまうのは、どうにもなりません。
Q太郎さんなら、どう回避しますか?」
とのことです。ありがとうございます。
最初に結論を言いますと、Q太郎も回避できません。ぶっちゃけ無理です。
人は、比較しながら物事を認識します。
「長い」があるのは「短い」があるからです。「高い」があるのは「安い」があるからです。単独では存在できません。
前回も言いましたが、株価300円でも、数字だけだと高いのか安いのかわかりません。過去や同じ業種と比較する必要があります。
自分の収入が多いのか。
仕事がうまくできているのか。
生活が豊かなのか。
これも、何らかの基準と比べて考えます。
ですから、「他人と比べるのをやめましょう」と言われても、脳の構造上、無理なんですね。そこはもうあきらめてください。これは仏教でいうところの、「明らかにする」という意味でのあきらめです。
問題は、比較したことではありません。
比較自体に良い悪いはありません。問題はその比較によって自分が不幸だと感じてしまうことにあります。
友人の年収が高い。
だから、自分の人生は負けている。
同期が先に出世した。
だから、自分には価値がない。
一つの数字を比べただけなのに、人間や人生全体の採点まで始めます。
Q太郎が考えるのは、比較を消す方法ではありません。
比較をうまくコントロールする方法です。
そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に飲み込まれないための生存戦略を独自の視点で解説します。
今回は前回に続き、「身近な人との比較をやめられない人へ」を深掘りしていきます。
・三つ話すこと
今日は大きく三つ話します。
一つ目、比較をやめようとしても、なぜうまくいかないのか。
二つ目、幸福を感じやすい人と、不幸を感じやすい人では、比較への反応がどう違うのか。
三つ目、上方比較と下方比較を、自分でどう使い分けるのかです。
最後に、比較しても幸福に生きることはできるのか、Q太郎なりの見立てを置いて終わります。
・一つ目・比較は消せない
それでは一つ目、比較をやめようとしても、なぜうまくいかないのかです。
人は自分よりちょっと上の人と比べたがります。イーロン・マスクとか大谷翔平とか、すごい上の人とは比べませんが、ちょっと上とは比べたがるのですね。これを「上方比較」といいます。
上方比較には、よい面があります。
あの人のやり方を学ぼう。
自分にも足りない能力が分かった。
次は、ここまでできるようになろう。
そんな感じで、自己改善の動機になります。
それで、向上心が強い人ほど、自分より少し上の人へ目が向きやすい傾向があります。ここが問題というか、バグの発生源なんですね。
質問者さんも、同期や友人と比べずにはいられないということは、自分をもっとよくしたい気持ちが強いのかもしれません。自己改善の意欲が強いのだと思いますね。
それ自体は、悪いことではありません。
ただ、上方比較には終わりがありません。
同期に追いつけば、次は上司がいます。
上司に追いつけば、同業他社の成功者がいます。
国内で上へ行けば、今度は世界が出てきます。
ラスボスにはビル・ゲイツとかウォーレン・バフェットとかイーロン・マスクが出てくるわけです。そんな面倒なことするなら、最初からこいつらと比べろよ、とQ太郎は思ってしまいますが、基本的には、人は段階を踏みたがる、面倒くさい生き物なわけです。
そんな感じで、自分よりちょっと上の人は、探せば必ず見つかります。
そして上方比較は、自分の能力を伸ばすためのやる気にはなります。届かないほど上だったらやる気をなくすけど、ちょっと上ならやる気が出る。悪い事では無いです。
先ほども言いましたが、たぶん質問者さんは自己改善や上昇傾向が強いので、上方比較をしやすいのだとは思います。それ自体は悪い事では無いですし、上を目指すことで自分の能力を引き上げたりもできます。ただずっとそれだと厳しいとは思います。
とくに50代以降は、統計的に年収も能力が落ちますので、その上方比較のメンタルを持ち続けると、それ以降の人生はつねに不幸だらけになる可能性は高いです。どんどん下がるのですから、当たり前と言えば当たり前ですね。
50代以降になれば、役職、収入、体力など、それまで上がってきたものが、同じ速度では上がらなくなります。というか、下がることのほうが多くなります。とくに体力は落ちますし、なんか体のあちこちが痛くなります。そんなもんですので、50代以降に体が痛くなっても驚かないようにしてください。
そんな感じで、50代を越えたら、もう上方比較には興味を無くして、別の方向に行ったほうがいいとQ太郎は思います。
テレビとか広告とかでは、物を買わせるという理由があるので、「老後も輝いて生きる」とか「人生は60代から」とか言い出してますけど、年収のピークは統計的に50代なので、上方比較をやめて競争から降りないと、今後の人生ずっと不幸になります。
ずっと下り坂になりますしね。
アンパンマンの作者とか、カーネルおじさんとか、メディアが特殊な成功例を持ち出して、あなたにもできるとか言い出すの、本当によくないと思います。やりたい人はやればいいとは思いますが、こういうサンプル数1の世界には注意してください。
そのサンプル数1を新しい物差しにして、老後も自分を追い込まないほうがいいです。
上方比較は、自分を育てる道具にはなりますが、自分を一生罰する道具にしてはいけません。
「老後に輝く」とか、キラキラワードは本当に注意です。やりたい人は頑張ってやればいいですが、Q太郎は普通に暮らしたいです。
・二つ目・比較に幸福を預ける人
二つ目、幸福を感じやすい人と、不幸を感じやすい人では、比較への反応がどう違うのかです。
堀田秀吾さんの『考えてはいけないことリスト』で、社会的比較に関する研究が紹介されていました。
カリフォルニア大学リバーサイド校のソニア・リュボミアスキーと、スタンフォード大学のリー・ロスによる研究です。
実験では、参加者が言葉を並べ替える課題などに取り組み、近くにいる別の参加者が、自分より速くできた場合と、遅かった場合を比べました。
自己申告で不幸を感じやすい人たちは、相手の成績によって、気分や自己評価を大きく動かされました。
相手が自分より速くできれば、自分の評価が下がる。
相手が遅ければ、自分の評価が上がる。
勝った、負けたで、気分が大きく揺れます。
一方、幸福を感じやすい人たちは、自分より優れた相手がいても、悪い影響を比較的受けにくい結果になりました。
つまり、「社会的比較をうまくコントロールできている人が幸福を感じやすい」ということになります。
さらに言えば、この研究では、不幸を感じやすい人は、まわりの人の成功や、自分より優れている点に目を向けやすい傾向があるということです。
一方で、幸福を感じやすい人は、他人の失敗や自分より劣っている点だけに目を向け、自分の気持ちや自己評価を守ろうとします。優れた点には目を向けない、比較しない。劣った点だけ目を向けて比較する。
ある意味、性格が悪いですが、そういう人のほうがハッピーな毎日を送れてしまうわけですね。
もちろん、幸福な人が、いつも他人の悪いところだけを探しているという意味ではありません。
違いは、比較情報を受け取ったあと、その一つの結果へ自己評価の全部を渡すかどうかです。
例えば、友人が自分より仕事で成功した。
それは、友人についての情報の一部です。
自分の人生が失敗だという判決ではありません。
自分がゲームが好きで、ゲームを遊ぶ時間があって、一方でその友人がゲームを遊ぶ時間もないぐらい忙しいのなら、人生としては自分が勝っているとも言えます。
不幸を増やすのは、比較の結果そのものより、比較した一項目を、人生全体へ広げてしまうことですね。
そんな感じで、幸せな人は社会的比較をコントロールし、自己評価を安定させます。
不幸な人は比較情報に過敏に反応し、社会的比較のコントロールがうまくできず、「勝った、負けた」で気分がガンガン揺り動いて、不幸を増大させてしまうのですね。
自己肯定感というのも、この社会的比較がうまくコントロールできているかどうかの問題でしかありません。
社会的にめぐまれている日本で、自己肯定感が低い人が多いのも、まじめで自己改善意欲が強く、向上心のある人が多いので、上方比較をしやすいんだと思いますね。ある意味、社会のバグだとは思います。自己改善しようと思って不幸になっているんですからね。
逆にスリランカとか貧しい国は、まわりもみんな貧しいので、本人は案外ハッピーに生きているわけです。
・三つ目・今日は引き分けにする
三つ目、上方比較と下方比較を、自分でどう使い分けるのかです。
自分より相手の劣っている点を比較することを、「下方比較」といいます。
先ほども言ったように、下方比較をしているほうがハッピーです。これをうまくつかって、社会的比較をコントロールします。
自己改善の意欲が強い人は、上方比較を繰り返します。やる気のアクセルとしてはいいのですが、やりすぎて自分は何もできないように感じたとき、ちょっと目線を下に向けて、自分ができていることへ目を戻します。
たとえば自分がミニ四駆を作るのが得意で、友人は全然できないのであれば、「よし、あいつはミニ四駆をつくれない」と勝ち誇っておけばいいでしょう。比較なんてしょせんその程度の話なのです。
そもそも上方比較のほうで勝ったからといって、あなたの人生が幸福になるともかぎりません。ぶっちゃけ、比較なんてなんでもいいわけです。
そもそもあなたが勝手に、他人の年収とかと比較しているわけです。あなたが勝手に比較対象を選んでいるのです。だったらミニ四駆を選んでもいいわけです。
あなたが勝手に選んだ比較対象で負けたことと、人生で負けたことは同じではありません。
人間には、いくらでも別の比較軸があります。
自分が得意なことを一つ思い出し、一項目で作られた上下関係を壊します。項目を複数にするのですね。
「あばれ隼」を全巻読んだとか、ロボダッチの宝島を作ったことがあるとか、なんでもいいわけです。項目を複数にする。これが社会的比較をコントロールすることです。
ちなみに最近、Q太郎は「あばれ隼」を全巻読みました。また感想を動画にしたいと思います。ダブルハリケーンの投げ方は、やっぱり反則だと思いました。
そんな感じで、Q太郎は、上方比較はスキルアップに使い、下方比較はメンタル回復に使えばよいと思っています。項目を複数持っておくことですね。
上の人を見て、学べることを一つ受け取る。
それでメンタルが傷ついたら、自分がすでに持っているものを一つ思い出す。
それとストレスが高かったり、病気になっているときは、下方比較をしにくいという研究結果もあります。こういう状態のときは、注意が必要になりますね。
ただ下方比較には、意識しないでおこなう受動的なものと、能動的におこなうものがあり、能動的におこなうものは攻撃性が強くなってしまうので、そのあたりも注意してください。人間関係を壊すこともあります。
あくまで心の中で思って、口や態度には出さないように注意しましょう。
例えば、あいつは年収しか取りえがない。
あの人は人間として自分より下だ。
そこまで行けば、回復ではなく攻撃です。
人間関係も壊します。
ミニ四駆の話は、本人へ言う必要はありません。
心の中で勝手につぶやいて、翌日は普通に接すればよい。「あばれ隼」やロボダッチの話をしていて何ですが、いい大人がするような話ではありません。
相手の価値を下げるのではなく、一つの比較軸に支配された自分の評価を、軸を複数にして、元の大きさへ戻すために使います。「ここでは勝てる、ここでは負ける」のような客観性を持つことですね。
・生活の疲れ
そして、比較にあまりにも過敏になっているときは、比較の技術より先に、生活の余裕を考えたほうがよい場合があります。Q太郎的にはこちらが本質だと思っています。
疲れている。
仕事に追われている。
自分の価値を証明し続けなければならない。
そういう状態では、他人の成功が、自分への攻撃に見えやすくなります。
以前取り上げた『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』では、「情報」は「知りたいこと」、「知識」は「知りたいこと+ノイズ」と定義づけていました。
今の人が動画や映画を早送りで観たり、さっさと結論にたどり着きたいのも、時間がないわけではなくて、この「ノイズ」を受け入れる心の余裕がなくなっているからですね。ゲームとかスマホとかをやる時間はたっぷりあるわけです。
読書と言うのは、このノイズがたくさん入っているわけです。それは自分が触れたことのない、他者の領域を知るということにもなります。他人を受け入れるということなのですね。
これらを全部排除して、自分の知りたいことだけを知っていると、「人生」は豊かにならないですし、「情報」はあっても「知識」は付かないわけです。哲学なんてノイズだらけですしね。
多種多様な他人のノイズを受け入れられないと、つねに追い詰められている状態になって、「あいつに勝たなければ」と必死にノイズの無い「情報」だけを追い求めるわけです。自分の心に他者がいなくなりますから、幸福からはどんどん遠ざかり、精神的な孤独になっていくわけですね。
読書は、自分とは違う他者の文脈を受け入れることでもあります。
心に余裕があれば、相手の優れた点も、自分を否定する材料ではなく、自分とは違う人の情報として受け取れます。
余裕がなければ、あいつに勝たなければならないと考え、勝敗に関係のないノイズをすべて排除します。知りたいことだけ、情報だけの世界になるのですね。ノイズを排除するということは、他者の存在や考えを排除するということにもなります。精神的孤独になるのも、当たり前と言えば当たり前です。自分と情報以外、存在しない世界に生きているようなものですしね。
ですから、比較で心が毎日揺れるなら、空いた時間をすぐスマホやゲームで埋めず、少しぼうっとして心の余裕をつくる。「何もしない時間があってもOK」という心の余裕ですね。
家事や掃除もしてみる。ノイズを受け入れる。
それで、仕事や生活に、他人の成功を受け止める余白が残っているかを考える。
比較の問題に見えて、実は疲れすぎているだけかもしれません。
・まとめ
最後に、比較をしながら幸福に生きることはできるのか。Q太郎なりの見立てを置いて終わります。
同期や友人、知人と比べてしまう。
これは、完全には避けられません。
比較は、自分の位置を知り、能力を伸ばすためにも使われます。
ただそれは比較の中の一項目でしかありません。
コーエーの「三國志」というゲームも、武将のパラメータは武力だけではなく、知力や魅力などもあります。特技もあります。
あいつは自分より事務処理が優れている。
そこから一つ学ぶ。
でも、あいつはミニ四駆を作れない。
その程度で、比較を終わらせてよいと思います。そもそも比較項目は、自分で勝手に決めたものということを忘れないでください。年収比較も、あなたが勝手に「年収」で比較しているだけです。「ミニ四駆」に置き換えてもいいわけです。
比較で人生の勝者を決める必要はありません。
一項目で負けたら、別の項目を思い出す。
それでも心が揺れるなら、比較相手ではなく、自分の生活から余裕がなくなっていないかを見る。
短絡的な情報より、根本にある自分の状態を考える。他者のノイズを受け入れられないぐらい、生活に余裕が無くなっているのかを確認する。
そういう根本的なことを考えるのが、哲学だとは思います。
皆さんは、どんな相手と、どんな項目で上方比較をしてしまいますか。反対に、「これだけは自分のほうができる」と、心の中で勝ち誇れるものはあるでしょうか。よければコメントで教えてください。全部読ませていただいています。
数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。
ではまた、Q太郎でした。この動画を気に入っていただけましたら、高評価・チャンネル登録をよろしくお願いいたします。
