なぜ人は、身近な人と「間違った比較」をするのか? 見栄の消費を生む曲がった物差し

なぜ人は、身近な人と「間違った比較」をするのか? 見栄の消費を生む曲がった物差し
【毎日17時更新中!】たまに午前中にも追加投稿します。タレント、親友、親族など、条件の違う相手を物差しにすると、十分な収入や暮らしまで不足して見えることがあります。比較を完全にやめるのではなく、比較対象が測りたいものに合っているかを確認する...

こんなコメントをいただきました。

「見栄の消費ですが、イーロン・マスクと比較しないことは当たり前ですが、あきらかに自分と関係ない人たちを比較対象にしている人が多い気もします。会社員なのに「タレントの何とかさんが使っていたから」という理由で、高い化粧品を買ったりとかですね。「いや、おまえはタレントじゃねーだろ」と言いたくなります。比較の意味がないのに、タレントと張り合って、見栄の消費をする人が多い気がします」

とのことです。ありがとうございます。

確かにそういうのはありますね。SNSの発展で見栄の消費の範囲も広がって、「タレントの山田さんが使っているから」とかいう理由で、高い物を買ったりとかですね。

これはいわゆる、「比較基準のゆがみ」というやつです。

アイスクリームがおいしいかどうかを判断するとき、カブトムシと比べる。

いったい何を言っているのか、これを言ったQ太郎にもよく意味が分かりません。

でも、人間は自分を評価するとき、これに近いことを普通にやっています。

例えば、建設業で働き、年収一千万円を得ている人がいる。

客観的に見れば、かなり高い収入です。

ところが、妹の夫がタレントで、年収四千万円を稼いでいる。しかもなんかすごい高級車を買っている。

それを知った途端、自分の一千万円が、みじめに見えてくる。自分の車もみじめに思えてくる。

建設業とタレント業では、仕事内容も、収入の安定性も、将来の見通しも違います。高級車を買ったのも、キャラクターづくりの一環かもしれません。

それなのに、「妹の夫」という身近な人を比較対象にして、年収という一つの数字だけを並べます。

アイスクリームの味を、カブトムシで測っているようなものです。

比較基準はおかしい。我々は客観的に見ているから、「年収1000万円なら高収入じゃん」と言える。

でも、本人は真剣です。

そして、自分も負けないようにしよう。

高級車を買おう。

家をもっと大きくしよう。

高い時計を身につけようと考えます。

「いや、あんたタレントじゃないやん。違う業種の人と張り合ってどうすんねん」と我々は客観的に突っ込めますが、本人は真剣です。

欲しい物を買っているのではありません。

間違った比較対象を使って、謎の勝負をして負けて、謎の対抗心を燃やしているんですね。「野球をやっているのに、カヌー競争で負けた。くやしい!」みたいな感じの、客観的に見ればわけのわからなさがあります。ただし本人は真剣です。

そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に飲み込まれないための生存戦略を独自の視点で解説します。

今回は「見栄の消費は、間違った比較から生まれる」を深掘りしていきます。

・三つ話すこと

今日は大きく三つ話します。

一つ目、人はなぜ、他人との比較から逃れにくいのか。

二つ目、親友や親族など、身近な人が自己評価をゆがめる理由。

三つ目、間違った比較対象が、なぜ見栄の消費につながるのかです。

最後に、比較をやめられない人間が、自分の物差しをどう守ればよいのか、Q太郎なりの見立てを置いて終わります。

・一つ目・比較しないと分からない

それでは一つ目、人はなぜ、他人との比較から逃れにくいのかです。

以前も言いましたが、我々の脳は、比較でこの世界をとらえています。「長い」があるのは「短い」があるからです。「高い」があるのは「安い」があるからです。

こうした言葉は、比較する相手がいなければ意味を持ちません。

「株価459円」という数字だけなら、ただの結果です。高いのか安いのかよくわかりません。

同じ株式の過去の株価と比べて、初めて「高い、安い」という評価が生まれます。株価だけ出されても、わけ若造なわけです。

収入も同じです。

年収五百万円という数字だけでは、多いのか少ないのか分かりません。

日本の平均年収とか、年代別・業種別の平均年収とか、何かと比べて位置を考えます。

ですから、他人と比較するなと言われても、完全にやめるのは脳の仕組み的に難しい。

自分が社会のどこにいるのかを知るため、私たちは比較を使います。

社会心理学には、社会的比較という考え方があります。

自分の能力や状態を評価するとき、人は他人との比較を手がかりにするというものです。

比較自体が悪いわけではありません。

問題は、脳が選んだ比較対象が、測りたいものに合っているとは限らないことです。ここに注意してください。無意識に、まったく違う物差しを使っている場合があるのですね。

自分の収入が、同じ仕事の中でどのあたりにあるのか知りたい。

それなら、本来は同じ職種や経験、働き方、年齢など、ある程度条件の近い集団を見る必要があります。

ところが実際には、そんな面倒な比較をしません。

昨日会った友人。

同じ町に住む兄弟。

会社の同期。

親戚の集まりで話題になった、妹の夫。

身近で思い出しやすい人を無意識に、そのまま雑に物差しにします。

「比較しやすい人」を、「比較してよい人」だと思い込んでしまうんですね。

間違った物差しは、物差しがない状態より厄介で危険です。そもそも比較対象ではありませんしね。それでも人間は、自分のアイスクリームの甘さと、妹の夫が持っているカブトムシの、クワガタに対する戦闘力を比べてしまうわけです。

アイスクリームの糖度は35ぐらい。カブトムシの戦闘力は53万です。

そして「カブトムシに負けた!」と嘆くわけです。

数字が出るぶん、正しく測れた気にさせるからです。

これ、客観的に聞けば笑い話ですが、我々の脳はこの笑い話を無意識にやってしまっているのです。

だから業界の違う親戚の年収を聞いて、俺はダメだと悩むわけです。

・二つ目・身近な人が物差しになる

二つ目、親友や親族など、身近な人が自己評価をゆがめる理由です。

心理学では、少数の身近な相手との比較が、大きな集団との比較より自己評価へ強く影響することがあります。

ローカル・ドミナンス効果と呼ばれるものです。

例えば、自分の年収が、同じ職種の中で上位にあると分かっている。これは客観的な判断ですね。

それでも、隣の席の同僚が自分より少し多くもらっていると、負けた気がします。

全国にいる何万人より、毎日顔を見る一人のほうが、自分の評価を動かします。「サンプル数1」が評価に影響をあたえているのです。統計を学んだ人なら、このおかしさがわかるとは思います。

しかも、身近な人は、一度だけ物差しになるのではありません。

身近だから思い出しやすく、暮らしぶりも見えやすいため、同じ相手を何度も物差しとして使います。

収入を比べる。

次は、家の大きさを比べる。

車、服、旅行の回数、子どもの進学先まで比べる。

本来なら、それぞれ別の事情や目的を持つものです。

しかし、使い慣れた相手、というか使い慣れた物差しなので、何を測るときにも同じ人を持ち出します。

一本の曲がった定規で、収入も、家族も、幸福も測り続けるんですね。アイスクリームの糖度をはかるのに、カブトムシ用のスカウターを使うようなものです。

繰り返すうちに、その人との上下関係が、自分という人間全体の評価に見えてきます。

収入で負けただけなのに、人生で負けたように感じる。

家が小さいだけなのに、自分の家族まで劣っているように感じる。

身近な物差しを繰り返し使うことで、一時的な比較が、ゆがんだ自己像として固定されていきます。

イーロン・マスクがいくら稼いでも、普通は自分と比べません。

あの人は別世界の人だと切り離せます。

しかし、親友や兄弟、親戚なら、自分と同じ世界にいるように感じます。

その人の生き方や仕事が自分とまったく違っても、距離が近いというだけで、比較できる相手に見えてしまいます。「アホじゃん」と思うかもしれませんが、その「アホじゃん」を脳は無意識におこなうのです。

先ほどの建設業とタレント業がそうです。

建設業で年収一千万円なら、その業界や働き方の中で、どの位置にいるのかを見るべきでしょう。サンプル数の多い母体と比較するべきです。

しかし、妹の夫がタレントとして四千万円を稼いでいると、その数字に引っぱられます。サンプル数1で、しかもまったく関係のない集団なのに、なぜかそれを比較対象として利用してしまいます。大学の研究室の教授から、「おまえ、今すぐ出ていっていいよ」と言われる案件です。

タレントの収入には大きな波があるかもしれません。

来年も同じ仕事があるとは限りません。

反対に、妹の夫から見れば、安定して一千万円を得られる建設業のほうが、うらやましい可能性もあります。

それでも本人の頭には、「四千万円」という物差しだけが残ります。

自分の生活に一千万円で足りているかは関係ありません。

身近な人が一円でも多ければ、負けた気がする。

自分が一円でも多ければ、勝った気がする。

極端に言えば、自分の年収が二百万円でも、周囲が百八十万円なら満足するかもしれません。

反対に一千万円あっても、身近な人が四千万円なら、自分はだめだと思う。

暮らしの豊かさではなく、身近な順位が自己像を作っています。

しかも、比較対象を同じ職業へ変えれば解決するとも限りません。

身近な人が作家だったとして、その印税と自分の年収を比べる。

紙の本で発行部数に応じて印税が支払われる場合、初版の次は、重版されなければ新しいまとまった印税は入ってきません。

毎年安定して受け取る給与とは性格が違います。

では、作家同士なら比較できるのか。

純文学作家とライトノベル作家では、読者の数も市場も違います。

純文学では、五千部が大きな成果になることもあります。

それを、より大きな市場を持つ娯楽作品の販売数と比べても、作品や作家の価値は測れません。

さらにライトノベルの中でも、女性向け恋愛小説と男性向けファンタジーでは、読者も売り方も違います。

同じ「本」、同じ「作家」というだけで一つの物差しに載せるのは、天ぷらとイリオモテヤマネコを比べるようなものです。

どちらも日本に存在する。共通点はそれぐらいでしょうか。

それ以上、何を比べればよいのか、Q太郎にも分かりません。

・三つ目・存在しない不足を買い物で埋める

三つ目、間違った物差しが、なぜ見栄の消費につながるのかです。

見栄のために高い物を買う人は、ぜいたくが好きだから買っているように見えます。

しかし、その前には、ゆがんだ自己評価があります。

妹の夫より収入が少ない。

親友より家が小さい。

兄弟より車が安い。

会社の同期より、子どもの進学先が目立たない。

間違った物差しの中で、自分に不足があるように見えます。

そこで車や時計、家、服などを買い、順位を戻そうとします。

本当に必要な物を買っているのではありません。自分の好きな物を買っているわけでもありません。

比較によって作られた、存在しない不足を埋めているだけです。

これが厄介なのは、一つ買っても終わらないことです。

比較対象の相手が別の物を買えば、順位表がまた書き換わります。

今度は車で勝った。

しかし、家では負けている。

家を大きくしたら、旅行の回数では負けている。

比較する項目は、いくらでも増やせます。

自分の満足を目標にしていないため、買い物では終点に着けません。

そもそも「自分軸」ではなく、「他人軸」で行動してしまっているのですね。

では、他人との比較をすべてやめればよいのでしょうか。

Q太郎は、それも難しいと思っています。

比較は、自分の位置を知るために必要です。

ただ、何かを見て急に自分が足りなく感じたとき、Q太郎は一つだけ考えます。

「その人が存在しなかったら、自分はこれを欲しいだろうか。」

妹の夫が四千万円稼いでいることを知らなくても、その車が欲しかったのか。

親友の家を見ていなくても、自分の家を狭いと思ったのか。

相手を比較表から消しても欲しいなら、自分の欲望かもしれません。

相手を消した途端、欲しくなくなるなら、買おうとしていたのは物ではなく、「順位」です。

・まとめ

最後に、比較をやめられない人間が、自分の物差しをどう守ればよいのか。Q太郎なりの見立てを置いて終わります。

人は比較によって、自分の位置を知ろうとします。

だから、比較するなと言うだけでは解決しません。脳の仕組み的に無理です。比較がないと認識ができません。

問題は、身近な相手を、正しい比較対象だと思い込むことです。

しかも、その物差しを一度だけではなく、何を評価するときにも繰り返し使ってしまいます。

親友だから。

兄弟だから。

妹の夫だから。

その人たちはすぐに思いつくので、比較しやすい相手です。SNSだと、この範囲が拡大されてしまっていますね。

しかしこれらは、比較してよい相手とは限りません。

仕事も、収入の安定性も、背負うリスクも、望む人生も違います。

それなのに数字だけを並べれば、物差しも、そこから作られる自己像もゆがみが出てしまいます。そもそも物差しが間違っているのですから、ゆがむのも当たり前なわけです。

見栄とは、自分に足りない物を買うことではありません。

間違った物差しで負けた自分を、買い物で勝たせようとすることです。

でも、アイスクリームがカブトムシに勝つため、何を買えばよいのでしょう。

天ぷらがイリオモテヤマネコに勝つため、高級車へ乗る必要があるのでしょうか。

もはや、何の順位なのか分かりません。Q太郎もよくわかりません。

比較するなら、自分が測りたいものに合った物差しを選ぶ。サンプル数も多くする。サンプル数1とかはやめましょう。

そして最終的には、比較基準ではなく、自分の生活に本当に足りないものがあるのかを見る。

身近だからという理由で選ばれた相手、というか物差しに、自分の豊かさを決めてもらわない。

Q太郎は、比較をやめる必要はないと思っています。やめるのは脳の構造上、無理です。

ただ、アイスクリームの味を、カブトムシで判断していないかは確認したほうがいい。比較集団を正しくして、サンプル数もじゅうぶん多く取ったほうがいい。サンプル数1とかは絶対やめてください。統計の先生が発狂します。

あさっての方向へ物差しを伸ばせば、測るたびに自己像がゆがみます。

そのゆがみを買い物で直そうとしても、必要のない物が増えるだけです。

皆さんには、なぜこの人と比べていたのだろう、とあとから不思議に思った経験がありますか。その人が持っていなければ、自分も欲しがらなかった物はあるでしょうか。よければコメントで教えてください。全部読ませていただいています。

数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。

ではまた、Q太郎でした。この動画を気に入っていただけましたら、高評価・チャンネル登録をよろしくお願いいたします。

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