
こんなコメントをいただきました。
「54歳、無職、おっさんです 現在、欲しい物、やりたい事はありません 経済的に問題ありません。
お金と時間と体力はそれなりにありますが、気力と忍耐力がありません 欲しい物、やりたい事がある方は、幸せだと思います もう、私の才能と能力で、ワンチャンでも可能性がある物事で、欲しい物やりたい事は見つからないです。
後は、孫ができたら、私が取り除ける孫の寂しさや悲しみを軽減してやれればと思っています おそらく、めっちゃ大変で、少ししか楽しくないけど、何故かそうしてやりたいです。
面白い物事や楽しい物事は与えるのは難しいけど、寂しさや悲しみは軽減しやすいと思っています。
明日も楽しみです ありがとうございます。」
とのことです。こちらこそ、ありがとうございます。
「やりたいことがない」という状態そのものは、おそらく何も問題ではないとは思います。
でも、「ダメな人間のように感じてしまう」というところに、今回掘り下げたいテーマがあると思いました。
それにしても、なんで『やりたいことがない』というだけで、Q太郎も含めて、我々は無意識に罪悪感を感じるんでしょうね。Q太郎もずっと不思議でして。たぶん、誰かが作った『理想の老後』みたいなイメージを、気づかないうちに飲み込んでるんじゃないかな、と思っていて。
今日はそこを一緒に解きほぐしていきたいと思います。
そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に悩まされないための生存戦略を日々発信しています。
今回は「やりたいことがない人のための新哲学」を深掘りしていきます。
・「やりたいこと探し」の呪縛
それで、Q太郎がずっと気になっていたことがありまして。『定年後はやりたいことをやろう』って考えかた、あれどこから来たんでしょうね。いや、目的があること自体はいいんですけどね。ただ、なんか義務的な感じもあるわけです。
思い当たる節があるとしたら、テレビや雑誌が長年かけて作ってきた「充実した老後」のイメージじゃないかとQ太郎は思っています。旅行雑誌に載っているシニア夫婦、ゴルフや陶芸を楽しむ退職後の男性、孫と笑顔で遊ぶおじいちゃん——ああいう映像が「老後の正解」として頭に刷り込まれていく。
最近はSNSやYouTubeがそれに拍車をかけています。「シニアになっても充実した毎日を送っています」「退職後に新しいことを始めて輝いています」みたいな発信が次々と目に入ってくる。見るたびに、何もしていない自分が「老後の使いかたを間違えている人間」のように見えてくる。
でも、ちょっと待ってほしいんですよ。
あの「充実した老後」の映像って、誰かが、というか、業者が用意したカタログなんですね。
旅行、ゴルフ、習い事、豪華クルーズの旅——考えれてみれば、資本主義バリバリな内容なわけです。業者の資本主義カタログなわけです。
そのカタログの中に自分のやりたいものがなかったとしたら、それは「あなたの欲望が欠陥品になっている」のではなくて、「カタログが合っていない」だけの話です。
だってQ太郎は図書館へ行くのが楽しいわけで、海外旅行に行くときも、基本観光地よりも図書館とか本屋に行きたいわけです。でも「楽しい老後は図書館へ」とかいう特集は聞いたことないわけです。なんか夫婦で温泉旅行とか、豪華クルーズの旅なわけです。図書館じゃ、業者のふところにお金は入りませんしね。
しかも厄介なのが、「やりたいことを見つけよう」と力めば力むほど、余計に見つからなくなることです。欲望って、探して出てくるものじゃない。探している時点で、そもそもあなたの本来の欲望じゃありません。
それで老後に仕事がなくなって、時間が急に大量にできたとき、人は一時的に「心の空白」ができることがあります。この状態は、欲望がなくなったんじゃなくて、次のフェーズに体が移行しようとしている途中の状態なんです。
・「何もしない」の再定義
ここで一度、「何もしない」をちゃんと定義し直したいと思います。
Q太郎の見かたでは、「何もしない」には2種類あります。
一つは、本当は何かしたいのにできていない状態。気力がわかない、無気力、何を見ても興味が持てない——これは気分の問題、あるいは体のサインのこともあります。この場合は、何か変化が必要かもしれません。場合によっては、鬱になったりしますしね。とりあえず家から出て、近所を散歩したほうがいいとは思います。明るい太陽の光を浴びていれば、なんか悩みとかどうでもよくなってきますしね。実際、南国の人たちは、べつに目的もなく、明るく楽しくいい加減に生きてますしね。
もう一つは、特に何かをしなくても、それ自体が心地よい状態になるということです。縁側でぼーっとお茶を飲んで、庭を眺めて、それで十分だという感覚。これは、全然悪くない。むしろ、この状態を「許せるかどうか」が、老後の幸福度に大きく関わってくる。これを極められれば、悟りのレベルに近づけるんじゃないかとは思います。座禅なんて、ぶっちゃけこの「何もしない」をやっているだけですしね。極めたら人生勝ち組です。
問題は、多くのかたが後者の状態、人生的には悟りを開いて勝ち組に近づける状態にいるのに、「これではいけない」と感じてしまうことです。
考えてみてください。20代から30年、40年、ずっと「生産性」という物差しで動いてきました。成果を出す、役に立つ、数字を達成する——そのモードで動き続けてきた人間が、急に「何もしなくていい」と言われても、止まりかたがわからない。止まっていることに罪悪感を覚える。「こんなことをしていていいんだろうか」という声が頭の中で鳴り続ける。
これはある意味で、真剣に生きてきたことの副作用なんです。ちゃんとやってきたから、やめられない。ある意味、すばらしいことなんですけど、ただその生産性は、退職後・老後という人生のフェーズに合っていない。合っていないのに、生産性モードのままだから、時間のあって何もしない毎日に罪悪感を覚えてしまう。
Q太郎はこう思っています。「何もしない」を「怠惰」と呼ぶのをやめていい。何もしない時間は、これだけ走り続けてきた自分への、最高に贅沢な報酬として位置づけ直してもいいんじゃないかと。
・余白を買うお金の使い方
ここで、お金の話を少ししましょう。
「やりたいことがないから、お金の使い道がわからない」というコメントも多く寄せられています。
旅行に行きたいわけじゃない、高級レストランにも特に興味がない、ブランド品も要らない。でも、ただ貯めておくのも違う気がする——という感覚ですよね。
この悩みは、実はとても面白い段階に来ているとQ太郎は思っています。
「モノやサービスを買う消費」、つまり資本主義的なよくある消費から、「状態を維持する投資」への移行ができる段階に入っている。
静かな住環境。騒音がなく、近所のトラブルもなく、人に気を遣わなくていい空間。お金を出してでも「心の静けさ」を手に入れる。これも「余白に投資をする」ということです。投資家の場合、Q太郎も含めて、「買う」というのは無駄な行動と考えがちなので、「投資」と考えたほうがいいでしょう。自分の生活を穏やかにする投資ですね。
あるいは、自炊のレベルを上げて、毎日の食卓を小さな楽しみにする。これも同じ発想です。一回きりの派手な旅行よりも、毎日の日常の質を底上げすること。研究でも、頻度の高い小さな喜びは、たまの大きな喜びより幸福度を高く保つと言われています。
そのため、外食に頻繁に行くより、自炊スキルを上げたほうが、幸福度は高くなるのですね。レストランにあるような複雑なものを作る必要はなくて、日常的に自分がおいしいと思える素朴なものを作ればいいとは思います。ご飯と味噌汁、あと適当なおかずとかですね。卵ご飯とかもいいですよね。あったかいご飯の上に、卵をかけて食べる。海外だと生卵が食べられないので、日本だけの贅沢とは思います。海外に長く住むと、本当に卵ご飯が食いたくなるのですね。海外だと、卵ご飯は相当な贅沢料理です。生卵を食える環境って、本当にすごい。これ言いながら、すごく食いたくなってきました。
話を戻しまして、よく言われることですが、幸福研究の分野では「不安を取り除くためのお金の使いかた」は幸福度を大きく上げると言われています。心配事が一つ消える、それだけで気持ちが軽くなる。その状態を維持するためにお金を使う。これが「余白に投資する」ということです。
旅行に行かなくていい。高いものを食べなくていい。でも、何もしない時間を罪悪感なくすごせる環境を整えるためにお金を使う。そういうお金の使いかたに、この段階では意味があると思っています。
・期待値を下げる練習
もう一つ、Q太郎が大事だと思っていることがあります。「人生の期待値を下げる練習」です。
少し大げさな言いかたをしますが、人生にはOSのバージョンがあると思っています。
第1ステージは成長と学習の時代。学校、就職、スキルアップ。できないことをできるようにすることが基本動作です。
第2ステージは生産と達成の時代。仕事、家族、社会への貢献。「達成しなければならない」「役に立たなければならない」が基本動作です。
そして第3ステージ。これは、第1・第2の蓄積を静かに味わう平穏の時代です。
ところが多くのかたが、第3ステージに入っても第2ステージのOSのまま動こうとしている。「何かを達成しなければ」「充実していなければ」というOSが、まだ頭の中で走り続けている。しかも業者が利用してきて、豪華クルーズの旅とかをすすめてくるわけです。
このOSのままだと、「何もしない時間」は「無駄な時間」に見える。やりたいことが見つからないのは「努力が足りないから」に見える。毎日同じことをしているのは「成長していない証拠」に見える。
でも、これは古いOSで新しい生活を動かそうとしているだけで、OSが合っていないんです。
新しいOSのコアは、「ただ存在することで十分」という感覚です。今日、おいしいお茶を飲んだ。それだけで今日は良い一日だった——そう思える感受性。これを育てていくことが、第3ステージへの移行だとQ太郎は思っています。
「期待値を下げる」というと、諦めや退化のように聞こえるかもしれない。でも、Q太郎の言いたいのは逆です。大きな達成でしか満足できない状態は、実は感受性が鈍い状態です。というか、毎回毎回、大きな達成とかできるわけがない。友情・努力・勝利の漫画の見過ぎだと思います。
小さなことに喜びを見つけられるほうが、はるかに豊かな毎日をすごせます。これは退化ではなく、感受性の精度を上げることです。小さなことでも敏感に感じ取れる。散歩しているだけでも小さな変化が見つけられて楽しい。それが感受性です。
ついでに植物学の知識があれば、散歩は楽しくなるので、植物の本でも図書館で読むといいとは思います。こういう「お金にならない学問」を学べる余裕も、時間の余白があるからです。
「やりたいことがない」という状態は、ひょっとしたら第2ステージのOSが静まってきて、第3ステージの感受性がまだ育ちきっていない、その移行期間に起きることなのかもしれません。
焦る必要はないと思います。むしろ人生的には、資本主義から離れて、自由と悟りに近づく良い状態に移行しているんじゃないかとは思います。
・まとめ
そんなわけでまとめると、「やりたいことがない」は欠陥ではなく、ステージの移行期に起きる自然な状態です。
業者の作った「充実した老後カタログ」に乗る必要はありません。豪華クルーズは、乗りたければ乗ってもいいし、乗りたくなければ乗らなくてもいい。何もしない時間は怠惰ではなく、走り続けてきた自分への最高の報酬として位置づけ直していいとは思います。
お金の使いかたも、最終的には「余白を維持する」へと徐々に切り替えていくと、「使い道がわからない」という悩みの見えかたが変わってきます。静かな住環境でも、毎日の食事の質でも。何もしなくていい状態を整えることに使う、という発想です。
そもそもお金は商品券なので、取り替える必要がないということは、あなた本人のスキルが高いということでもあります。お金に頼らなくても楽しみが見つけられますし、物事を解決できるということにもなります。
そして、第2ステージのOSを少しずつ更新していく。大きな達成より、小さな良さに気づく感受性を育てていく。それが第3ステージへのソフトランディングだと思います。第2ステージのOSをずっと引っ張ってくると、年を取れば取るほど、どんどん違和感がすごくなってくるとは思います。
よかったら「あなたが今、『何もしなくていい』と感じる瞬間はどんなときですか?」、あるいは「やりたいことがない時期があったけど、こうやって折り合いをつけた」ということがあれば、コメントで教えてください。全部読ませていただいています。
数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。
