
取り崩し投資運用中のQ太郎です。
今回は、お金の本質が流動性という「機能」から、現代では「信用」へと変化していったことについてです。
Youtubeで観たい方は以下のリンクから。
お金の本質が「機能」から「信用」へと変化
このようなご質問をいただきました。
「もともとお金の本質は、物々交換を手軽に行うための「道具」であったはずです。ただQ太郎さんのおっしゃるように、現代ではお金が「信用」に変わったため、使わなくても貯め込むということをするのだと思います。人のステータスと結びついているので、お金を信じること自体が無くなることはないと思いますが・・・」
とのことです。ありがとうございます。
もともと人類は物々交換で経済を成り立たせていました。鹿の肉と塩を取り替えるとか、そんな感じですね。軽い物だったらいいのですが、重い物だと運ばないといけませんし、いろいろと大変なわけです。
しかも、「物の価値をどうやって決めたらいいのか」という問題もあります。「鹿の肉を、塩に換算するとどれぐらいになるのか」とか、そこに「俺、服を持ってるけど、これと肉を取り替えるとどうなるの?」みたいに、交換するものによって毎回物差しが変わってしまうのですね。
しかも相手が、その交換するものを欲しくないかもしれません。「俺、服はいらないから、交換しない」となると、物々交換自体が成り立たなくなるわけです。いろいろと不便なわけです。
しかし貨幣の登場によって、重い物を持ち運ばなくていいことから取引は楽になりましたし、物差しを「お金」で統一したことで、物の価値をはかる物差しも統一されます。「それいらないから交換しない」というのも無くなるのですね。
メリットはかなり多いですが、やはり本質は「モノとの交換」という流動性ですね。この流動性が、本来のお金の価値になるわけです。
「ヒト」が不足した世界
以前に、経済は「ヒト・モノ・カネ」の三要素で成り立っているという話をしました。
なぜこれまで「カネ」が重要だったかと言えば、「ヒト」と「モノ」が余っていて、「カネ」が希少価値を持っていたのですね。三要素の中で、一番少ないものが価値を持つのです。
ところがこれからは、少子化などで「ヒト」が減ります。「ヒト」が減れば「モノ」も減ります。この世界観では、「ヒト」と「モノ」が希少になるので、相対的に「カネ」の価値は落ちていきます。
例えば、こういうシチュエーションを考えてみてください。
ある日、あなたが目を覚ますと、世界から自分以外の人間が全員消え去っていました。電気も水道も止まり、スーパーの棚には数日分の食料が残されているだけ。 そんな絶望的な状況の中、あなたの目の前の金庫を開けたら、現金10億円と、純金100キロが入っていました。
その時、あなたは「よっしゃ!大富豪になったぞ!」と歓喜するでしょうか。 ……するわけがありませんよね。ただの重たい紙切れと、硬い金属の塊です。
喉の渇きを潤す1本の水にも、寒さをしのぐ1枚の毛布にも変わらない10億円など、1円の価値もありません。お金は、燃やして燃料の代わりに使うぐらいしか、用途は無いと思います。金塊の方は、Q太郎だったら積み上げて、料理用のカマドでも作りますかね。
そんな感じで、使い方が全然変わってくるわけです。その「物体」の本質的な使い方をしないといけなくなるのですね。
ここにあるのが、お金の冷徹な正体です。 「お金の本質は流動性」、つまり「交換できること」にあるわけです。
そして交換するためには、先ほどいった「ヒト」と「モノ」が必要なわけです。だから経済の三要素は「ヒト・モノ・カネ」なわけですね。「カネ」だけでは成り立たないのです。
お金は本来、何か別の価値と「交換する瞬間」にしか存在意義を発揮しない、ただの「商品券」に過ぎません。 例えば「食料」とか、「快適」さとか、「時間」とか、「経験」ですね。
しかし現代社会では、この商品券そのものに、価値を持たせるようになりました。
今回は、お金の歴史を紐解きながら、変貌したお金の「価値」について深堀りしていきます。
お金の歴史:ただの「道具」が「神」になった日
先ほども述べたように、本来、お金は物々交換の「めんどくささ」を解消するために作られた、ただの「便利な道具」でした。魚と肉を直接交換するのは大変だから、一旦「お金」という共通の物差しを挟みましょう、という利便性から生まれたシステムです。
つまり、初期の資本主義において、お金は「流動している状態」、ようするに「誰かの手を渡り歩いている状態」こそが正常であり、貯め込むことに意味はありませんでした。お金の本質は「流動性」なのですね。
しかし、社会が複雑化するにつれて、あるバグが生まれます。 それが、「お金の多さ=信頼」という評価基準の誕生です。
なぜこういう事が起こるのかと言えば、 それは「お金は腐らない」からです。つまり「貯め込むこと」ができるということですね。
人類の歴史を振り返ると、農業が始まったことで、私たちは「富を蓄える」というすべを手に入れました。たくさんお米や小麦を作った人が、それを貯蔵して豊かになる。 しかし、初期の資産形成には、大自然が用意した絶対的なブレーキが存在していました。
どれだけ豊作で大量の作物を手に入れても、放っておけば数ヶ月でカビが生え、虫が湧き、腐ってゴミになります。
昨年あたり、日本で米の値段が上がってコメ不足状態になったとき、コメのことをよく知らない連中が、利ザヤを稼ぐためにコメを買い占めて保存してたら、虫が湧いて使い物にならなくなったみたいな話がありましたが、時間が経てばしっかりダメになるのですね。
つまり、大昔の「富」には有効期限があったのです。だから、どんなに強欲な人であっても「腐る前に誰かと交換しよう」「腐る前にみんなに配って恩を売っておこう」という、健全なブレーキが強制的に働いていました。
ところが、ここに「お金」というシステムが登場したことで、この自然のルールが完全に崩壊します。
腐らないお金
お札やコイン、そして現代のデジタル数字は、10年経とうが20年経とうが、絶対に腐りません。虫も湧かなければ、カビて消えることもありません。
この「保存性」を手に入れた瞬間、人間の脳内にある蓄財の欲求は、完全にアクセルを踏みっぱなしの状態になりました。
本来なら「使い切れないから、もうこれ以上貯めても意味がない」となるはずの限界値が消え去り、「腐らないんだから、あればあるだけ良い」「1億円あっても、2億円、3億円と無限に増やし続けたい」という、終わりのない強迫観念が誕生したのです。これは「保存」ができるからなのです。
私たちが夜な夜なスマホを開いて、新NISAの画面や通帳の数字を眺めて安心してしまうのは、太古の昔に植え付けられた「腐る前に貯め込まなければ飢え死にする」という生存本能が、「絶対に腐らないデジタル数字」という富に対してバグを起こしている状態とも言えます。
資本主義システムが巨大化すると、「あいつがどれだけ誠実な人間か」を一人一人確かめるのが難しくなります。そこでシステムは、最も手っ取り早く、最も残酷な『ものさし』を導入しました。それが「いくら持っているか」です。つまり「お金の量」ですね。
たくさんお金を持っているということは、過去にそれだけ社会に「生産性」を提供した証拠だ。だから信用できる。 この大前提が社会に共有された瞬間、お金は「交換のための道具」という本来の役割を飛び越えて、「人間の価値や信頼を証明する、価値そのもの」へと神格化されてしまったのです。

以前に「腐るお金」の話をしました。1932年、実際にオーストリアのヴェルグルという小さな町で行われた、腐るお金の実験の話です。
町は失業率が30%ほどあり、経済が停滞していたのですが、毎月1%価値の減る地域通貨、つまり「腐るお金」を発行したところ、みんな積極的にお金を使うようになって経済が持ち直しました。失業率も30%から数%台まで一気に落ちたのです。
つまり、お金の持つ本来の「流動性」によって、経済がまわり、地域が活性化したということですね。
ただこの実験は、1年で強制終了してしまいました。というのも、オーストリア政府や中央銀行は、この「腐るお金」を自国通貨政策への脅威とみなし、ヴェルグルの地域通貨を違法にしてしまったのです。「こんなもの広まったら、国の通貨がヤバいやん」という話ですね。
これはお金が、本来の役割である「流動性」を一時的に取り戻したという話ですが、やはり貯蓄できるようになれば、「お金」という存在が価値を持つようになってきます。
現代の病理:流動性を失った「デジタル守銭奴」
「お金そのものに価値がある」と脳が錯覚した現代人は、どうなるか。 本来、価値と交換するための「手段」だったはずのお金を増やすこと自体が、「目的」にすり替わります。これが主従逆転の始まりです。
かつて中世のヨーロッパにいた「守銭奴」は、夜な夜な部屋にこもり、コインのチャリンという音を聴いてウットリしていたと言います。
これは現代でも全然変わってなくて、現代は、夜な夜なスマホを開いては、新NISAの評価額や、銀行口座のデジタル数字の増減を眺めて、一喜一憂する。やっていることは、まったく同じなのですね。

前回の動画で、「50歳を過ぎてなお『もっと稼げ、成長しろ』という怠惰の嘘に縛られるな」というお話をしました。 なぜ50歳を過ぎてもラットレースから降りられないのか。その原因こそが、この「流動性を失った数字にしがみつく病」です。
お金を「道具」として流動させ、自分の人生を豊かにすることよりも、通帳の「数字の多さという偽物の信頼」にしがみつく方が、脳が安心してしまうのです。
つまりこれは、実体のない「お金」を神として崇める、現代の「偶像崇拝」に他なりません。
かつて人類が恐れていたのは「富が腐ること」でした。農作物が腐れば、それはダイレクトに飢え、つまり死を意味していたからです。だからこそ、富は腐る前に使う、あるいは他人に分け与えて流動させるという生存本能のブレーキが機能していました。
しかし、絶対に腐らない「お金」という神様が現れたことで、人間の脳のブレーキは完全に破壊されました。「腐らないんだから、どれだけ貯めても安心だ」と本能がバグを起こし、いつしか神に捧げるお供え物、つまり「通帳の数字」を増やすことそれ自体が、生きる目的になってしまったのです。
どんなに熱心に祈りを捧げ、画面の中の数字という神の背中を追いかけたところで、その神様はあなたを上機嫌に休ませてはくれません。なぜならそれは、あなたが勝手に作り出した、実体のないデジタルな幻影だからです。
私たちは、自分の貴重な命の時間や健康という、この世で最もリアルな価値を差し出して、通帳の数字という「電子データの神様」をひたすら大きくする奇妙な儀式を繰り返しています。
太古の昔、お米が腐るのを恐れていた時代の人間から見たら、正気を疑われるレベルの話とは思います。
「腐らない数字」という名の神に、健康や時間など人生の主権を明け渡し、死ぬまでお供え物を貢ぎ続けるラットレース。これが、現代の資本主義がつくりだした「お金」という神の正体とも言えます。
本当の経済的自由とは、お金を「商品券」に戻すこと
お金の本質が流動性であるならば、賢い投資家、本当のFIRE民というのは、「お金を一番たくさん貯め込んでいる人」ではありません。「お金という道具の性質を理解し、最もエレガントに流動させられる人」のことです。
お金は、ただの「期限のない商品券」です。その本質をちゃんと理解し、お金を貯めること以上に、自分の人生を豊かにしようとする人たちですね。
デパートの商品券を数千枚持っているのに、一度もデパートに行かずにボロボロになって死んでいく人がいたら、誰だって「何のために貯めてたの?」と思いますよね。 通帳の数字を増やすためだけに、今しかできない経験をケチり、他人にコストを押し付ける「みっともない節約」に走り、心身を壊すまで働き続けるのは、商品券のコレクターになっているのと同じこととも言えます。
死ぬ時に「商品券の山」だけを残して、肝心の人生というデパートでの思い出が空っぽのまま生涯を終える。これほど滑稽で、これほど寂しい「投資の敗北」が他にあるでしょうか。
無駄遣いしろという話ではありません。「正しく貯めて、正しく使おう」という話です。
私たちは、数字を増やすために生まれてきたわけではありません。 大企業やSNSが仕掛ける「義務の消費」や、他人の目を気にした見栄のコストには、1円たりともサイフを開かない。しかし、自分や家族の安全、快適な時間、そして自分の知性や感性を上機嫌に保つための「意思の消費」には、一寸の迷いもなく、喜んでその商品券を使う。これこそが、お金の持つ「流動性」を120%引き出す、賢い投資家の姿です。
資産形成をする一方で、たんにお金を増やす「ゲーム」から、エレガントに降りる。 それは、「腐らない数字」という実体のない神様を引きずり下ろし、もう一度、ただの「便利な道具」「ただの商品券」という元のポジションに配置し直すということです。
強盗殺人した理由が「遊ぶお金が欲しかった」みたいな世の中です。この手の人達は、具体的に何を遊ぶかも特に決まっていないと思います。たんに「見栄の消費」をやっているだけですね。自分の欲望ではなく、他人を見て「いいなー」と思う事をやっているだけの、他人の欲望のコピーです。主体性のある消費では無いのです。
そもそも遊ぶのに、べつにお金はいりませんしね。散歩でも、スポーツでも、ゲームでも、読書でも、そんなにお金はかかりません。というか、無料でできることはかなり多いです。
お金を神様の座から引きずり降ろして、本来の「道具」として正しく使いましょう。お金は、あなたの人生を縛る鎖ではなく、あなたが自由で成熟した人生を耕すための「道具」であるはずです。
皆さんは、最近、お金を「数字」としてではなく、自分の人生を耕すための「道具」としてスマートに使えた瞬間はありますか? ぜひ、コメント欄で皆さんの「お金の哲学」を聞かせてください。
数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。
