脱成長とインデックス投資は両立するのか?お金に支配されないための現実解

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Q太郎のお金の哲学です。

今回は、脱成長と投資の両立についてです。

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脱成長とインデックス投資は両立するのか?

視聴者様から、こんなご質問をいただきました。

「Q太郎さんは脱成長なのですか?」

とのことです。ありがとうございます。

「脱成長」、最近ちょっと耳にするようになってきましたね。Q太郎もたしかに、お金に振り回される今の社会にはかなり違和感があります。必要のないものを買うために、頑張って働く。SNSで見栄を張るために、ブランド品や高級ホテルや高級レストランを消費する。お金を「感謝の量です」と言って、何か神聖なもののように扱う。

以前、「お金は『感謝の量』ではない」という趣旨の動画を出したことがあります。そのときに、「自分は感謝してお金を払っています」というコメントをいくつかいただきました。

これについては、少し補足しておきたいんですね。

お金を払う側が、「ありがとう」という気持ちでお金を渡すのは、まったく変なことではありません。いいサービスを受けた。助けてもらった。価値を感じた。だから感謝してお金を払う。これは自然なことだと思います。

ただ、受け取る側が「お金は感謝の量です」と言い出すと、Q太郎はちょっと違和感があるんですね。払う側の感謝と、受け取る側の「正当化」は、似ているようで少し違います。受け取る側がそれを言い始めると、「たくさんお金をもらっている自分は、それだけ感謝されている存在なんだ」という話になりやすい。

でも現実には、人の不安につけこんで得たお金もありますし、手数料の高い商品を売って得たお金もあります。観光地の物が高くて感謝している人は少ないとは思います。

ちなみに、ついこの前、台北の観光地にある海辺のレストランで、知り合いからお招きに預かったことがありました。そこで巻貝が一皿800元、日本円で4,000円くらいしたんですが、正直かなり観光地価格だなと思いました(笑) もちろん、場所代もありますし、雰囲気代もありますし、商売として成り立っているなら、それ自体を否定するつもりはありません。でも、そこで動いているお金を、全部「感謝の量」と呼ぶのは、やっぱりちょっと無理があると思うんです。 

だから、お金は感謝そのものではなく、あくまで交換の道具だとQ太郎は思うんです。感謝が込められることはあります。でも、お金そのものを感謝の量だと決めつけてしまうと、かなり危ういんじゃないかと思うんですね。

時間まで金額化

さらには、「自分の行動を時給で考えろ」と言って、時間すらお金という物差しで測ってしまうこともあります。

たとえば、「自分は1時間で1万円稼げるのだから、家事代行を雇って、その時間で仕事をした方が合理的だ」みたいな考え方ですね。

もちろん、言いたいことはわかります。忙しい人にとって、時間を買うことは大事です。仮に自分の時給が1万円で、家事代行を時給3,000円で頼めるなら、差し引き7,000円の得になる。数字だけ見れば、たしかに合理的です。

でも、何でもかんでも時給換算してしまうと、生活の全部が仕事の延長になってしまうんですよね。

掃除をする時間も、料理をする時間も、散歩をする時間も、家族と話す時間も、「これはいくらの価値があるのか」と計算し始めてしまう。

そうなると、生活そのものまでもが、お金稼ぎの舞台になってしまう気がするんです。Q太郎は、そういう空気に、かなり違和感があるんですね。

一方で、ここで注意したいのは、Q太郎自身もインデックス投資をしているということです。

インデックス投資というのは、基本的には、世界経済や企業利益の成長に乗る仕組みです。世界経済が長期的に成長して、企業が利益を出して、その果実を株主として受け取る。かなりざっくり言えば、そういうものですね。

だとすると、完全に「脱成長です」と言い切ってしまうと、今度はインデックス投資と矛盾してしまうところがあります。

世界経済がまったく成長しなくていい、企業利益も増えなくていい、という話になると、そもそもインデックス投資で利益が出る前提もかなり弱くなってしまいますしね。

なので、Q太郎が言いたいのは、「成長そのものを否定しましょう」ということではありません。そうではなくて、成長を利用しながらも、自分の人生まで成長競争に巻き込まれすぎないようにしましょう、ということです。

市場は成長してもいい。企業も利益を出していい。インデックス投資でその果実を受け取るのも、別に悪いことではありません。ただ、自分自身の生活まで、「もっと稼げ、もっと増やせ、もっと効率化しろ」という成長マシンにしてしまう必要はない。

というのも、市場や企業は、ある意味では「群体」だからです。

企業は入れ替わります。伸びる企業もあれば、衰退する企業もある。インデックスの中身も、時代に合わせて少しずつ入れ替わっていく。

だから市場全体としては、成長を前提に考えることができます。

ところが、私たちは「個体」です。

自分の人生は一つしかありません。

ダメになったからといって、別の自分に入れ替えることはできない。

ここを分けて考えたいんですね。

市場の成長には乗る。

でも、自分の人生まで、市場の成長ロジックに差し出さない。

Q太郎が言いたいのは、たぶんここなんです。 

そんなわけで、ようこそQ太郎のお金の哲学チャンネルへ。賢く資産形成をしつつ、お金に悩まされない生存戦略を発信しています。今回は、「Q太郎は脱成長なのか?」という質問について、独自の視点で深掘りしていきます。

脱成長そのものではない

まず結論から言うと、Q太郎は脱成長そのものではありません。

経済成長は必要ないとか、企業は成長しなくていいとか、社会全体が豊かにならなくていいとか、そういう考えではないです。先ほども言ったように、インデックス投資をしている以上、世界経済にはある程度成長してもらわないと困ります。企業が利益を出さない。経済がまったく成長しない。株式市場も伸びない。そうなると、インデックス投資の前提が崩れてしまいます。

それに、社会全体で見ても、成長がまったくない世界というのはなかなか難しいと思います。技術も進歩しない。医療も進歩しない。生活も便利にならない。新しい仕事も生まれない。そういう社会が本当に良いのかと言われると、Q太郎は少し違うと思っています。

たとえば、昔はできなかった治療が今はできるようになった。遠くの人と簡単に連絡できるようになった。海外に行きやすくなった。ネットで調べ物もできるし、こうやって個人が動画を発信することもできる。こういうものは、ある意味で成長や技術発展の恩恵です。そこを全部否定するのは、ちょっと違うと思うんですね。

なのでQ太郎は、「成長はすべて悪です」とは考えていません。成長そのものを否定するというより、成長のために人間が壊れていくことに違和感がある、という感じです。

成長に人間が使われている

今の社会を見ていると、成長のために人間が使われているように見えることがあります。

本来、経済成長は人間の生活を良くするためにあるはずです。食べ物が安定して手に入る。住む場所がある。医療を受けられる。働きすぎなくても生活できる。好きなことに時間を使える。そういう方向に進むなら、成長はかなりありがたいものです。

でも現実には、成長のために人間が走らされているように見える場面があります。もっと売れ。もっと買え。もっと働け。もっと稼げ。もっと見せろ。もっと成功者らしく振る舞え。そうやって、終わりのない競争に巻き込まれていく。

たとえば、もうスマホを持っているのに、毎年新しいモデルが気になる。服はあるのに、流行が変わると買い替えたくなる。まだ使える家電があるのに、新しい機能を見せられると欲しくなる。SNSで誰かの旅行やホテルやブランド品を見ると、自分の生活が急にしょぼく見えてくる。

これって、本当に自分の欲望なんでしょうか。

もちろん、本人が本当に欲しいなら、それはそれでいいと思います。欲しいものを買うこと自体が悪いわけではありません。

ただ、広告やSNSや世間の空気によって、「欲しいと思わされている」ものも、かなりあると思うんですね。何度か動画で言っている、「欲望のコピー」という現象です。誰かが欲しがっているから、自分も欲しくなる。SNSでみんなが持っているから、自分も必要な気がしてくる。広告で何度も見せられるうちに、いつの間にか「これは自分に必要なものだ」と思い込んでしまう。

でも、そこで一度立ち止まって考えたいんです。それは、本当に自分の内側から出てきた欲望なのか。それとも、外から植えつけられた欲望なのか。

ここを見分けないと、お金を使っているつもりが、実は誰かの欲望を代わりに生きているだけ、ということになってしまうんですね。

昔の大量消費社会は、便利なものを買って生活を良くする面がありました。冷蔵庫、洗濯機、車、エアコン。こういうものは、生活をかなり変えました。でも今は、便利さそのものより、「それを持っている自分をどう見せるか」に寄ってきている感じがあります。

つまり、物を買っているようで、実は「記号」を買っているんですね。

【記号の消費】物ではなく、意味を買っている

現代の消費でかなり大きいのは、「記号の消費」だと思います。

たとえば、高級時計を買う。もちろん時計としての機能もあります。でも今の時代、時間を見るだけならスマホで十分です。ではなぜ高級時計を買うのか。そこには、「成功している人に見える」「信頼できる人に見える」「センスがある人に見える」という記号が乗っているわけです。

ブランド品も同じです。バッグとして物を入れるだけなら、もっと安いものでも十分です。極端な話、スーパーのビニール袋でも、物を運ぶという機能だけなら果たせるわけです。

でも、ブランド品には、単なる収納道具以上の意味が乗っています。

「私はこういう人間です」

「私はこれくらいのものを持てる人間です」

「私はこの世界観に属しています」

そういうシグナルが乗っているんですね。

以前にも話した、シグナリングの話です。

もちろん、それが悪いという話ではありません。以前の動画でもお話ししたように、 社会の中では、外見や持ち物が信用につながる場面もあります。仕事、商談、人間関係、あるいは初対面の場面では、持ち物がその人の印象を左右することもあります。

だから、ブランド品を持つことには、一定の合理性もあります。

ただ、それを自分でわかって使っているのか。それとも、記号に振り回されているのか。ここが問題なんです。

たとえば、「成功者に見られたいから高級ホテルに行く」「お金持ちに見られたいから高級車に乗る」「自由な人に見られたいからSNSでキラキラした生活を見せる」。こうなってくると、自分のためにお金を使っているのか、他人の目のためにお金を使っているのか、だんだんわからなくなります。

そして恐ろしいのは、その記号を買うために、さらに働くことなんですね。

必要のないものを買うために働く。そして、働いたストレスを発散するために、また買う。さらに、その買ったものを見せるために、また次の消費が必要になる。

こうなってしまうと、ずっと消費と労働のループから抜け出せません。これ、かなり疲れますよね。FIREして自由になりたい人が、いちばんやってはいけない行動かもしれません(笑)。

Q太郎が違和感を持っているのは、まさにここです。経済成長そのものが悪いというより、成長と消費の仕組みに、人間の欲望がどんどん吸い込まれていく感じがあるんです。

お金が道具ではなく神様になる

さらに問題なのは、お金そのものが神格化されていることです。

以前にも話しましたが、「お金は感謝の量です」みたいな言い方があります。もちろん、言いたいことはわかります。誰かの役に立った。その対価としてお金を受け取った。だからお金は感謝の表れだ、という話ですね。それ自体は一部では正しいと思います。

でも、お金を何でもかんでも「感謝の量」と言い切ってしまうと、かなり危ういと思うんです。特殊詐欺で奪ったお金は感謝の量なのでしょうか。高齢者の不安を煽って高額な商品を売ったお金は感謝の量なのでしょうか。手数料の高い金融商品を売りつけて得たお金は感謝の量なのでしょうか。

違いますよね。

お金は感謝そのものではありません。お金は道具です。交換を便利にするための仕組みです。かなり便利な商品券のようなものです。もちろん大事です。軽視してはいけません。でも、神様ではありません。

お金を神様にしてしまうと、人間が道具に使われるようになります。本来は、お金を使って人生を良くするはずです。ところが、お金を増やすこと自体が人生の目的になってしまう。お金が減ると、自分の価値まで減ったように感じてしまう。逆にお金が増えると、自分が偉くなったように感じてしまう。

これって、かなり危ないと思うんですね。

脱成長という言葉を使うかどうかは別として、Q太郎は少なくとも、お金を神様の座から下ろして、道具の位置に戻したいとは思っています。ドライバーは神棚に置いて拝むものではなく、ネジを締めるための道具です。お金も同じで、人生を整えるために使う道具なんです。

【共産主義にも乗れない】大きな政府への違和感

では、資本主義や大量消費に違和感があるなら、共産主義や大きな政府の方向に行けばいいのか。Q太郎は、それも違うと思っています。

共産主義的な理想には、たしかに魅力的に聞こえる部分があります。みんなで平等に分け合う。格差をなくす。弱い人を助ける。誰も取り残さない。言葉だけ見れば、かなり立派です。

でも問題は、その理想を「誰が」実行するのかです。

昔、ジョージ・オーウェルの『動物農場』という小説を読みました。人間に支配されていた動物たちが、人間を追い出して、自分たちで平等な農場を作ろうとする話です。最初は理想に燃えています。みんなで力を合わせる。平等な社会を作る。ところが、だんだん支配する側がルールを自分たちに都合よく変えていきます。最終的には、支配者層だけが良い生活をするようになってしまう。

これ、かなり怖い話なんですよね。

共産主義や強い計画経済は、基本的に「計画」を国民に実行させないといけません。何を作るか。どれだけ作るか。誰に配るか。どこに資源を回すか。これを上が決めるわけです。ということは、ルールを作る側の権力がかなり大きくなります。

そして、権力が大きくなると、今度はその権力を持つ人が本当に優秀で、善良で、腐敗しないのかという問題が出てきます。ここがかなりのギャンブルなんですね。

上に立つ人が非常に優秀なら、うまくいくこともあるかもしれません。シンガポールのように、強いリーダーシップと優秀な官僚機構でうまく回る例もあります。でも、もし上に立つ人が間違っていたらどうなるのか。北朝鮮のような方向に行けば、国民はかなり苦しむことになります。

つまり、資本主義の暴走も怖い。でも、強すぎる計画経済や独裁的な仕組みも怖い。どちらも、人間が人間である以上、簡単には信用できないところがあります。

【理想と結果】良い動機が良い結果を生むとは限らない

ここで大事なのは、動機や思想が良くても、結果が良くなるとは限らないということです。

世の中は非線形です。非線形というと少し難しく聞こえますが、要するに、原因と結果がきれいに一対一でつながるわけではない、ということですね。

良いことを考えたから、良い結果になる。善意で動いたから、社会が良くなる。お金をきれいに使ったから、必ず幸せになる。

残念ながら、現実はそこまで単純ではありません。

むしろ、良かれと思ってやったことが、別の場所で歪みを生むこともある。誰かを助けるための仕組みが、別の誰かの依存を生むこともある。節約や合理化のつもりが、生活全体を窮屈にしてしまうこともある。

つまり、動機の美しさと、結果の良さは、必ずしも直線でつながっていないんですね。 

たとえば、「みんなを平等にしたい」という動機は良いかもしれません。でも、そのために強い権力が必要になり、その権力が腐敗したら、結果として多くの人が苦しむことがあります。「貧しい人を助けたい」という動機は良いかもしれません。でも、制度設計を間違えれば、働く意欲を奪ったり、不正利用が増えたりする可能性もあります。

逆に、資本主義にも良い面はあります。競争があるから新しいものが生まれる。利益を出そうとするから効率化が進む。個人が努力して豊かになる道もある。投資を通じて、個人が企業の成長に参加することもできる。

でも、資本主義にも問題があります。放っておくと格差が広がる。広告によって欲望が刺激される。お金を持っている人ほど有利になる。人間関係や自然環境まで市場に飲み込まれる。ここを無視して、「市場に任せれば全部うまくいく」と言うのも、かなり危ういと思います。

人間社会は、「Aをやったら必ずBになる」という単純なものではありません。良い思想が悪い結果を生むこともありますし、欠点のある仕組みが、結果的に人々の生活を良くすることもあります。だからQ太郎は、極端な思想に全部乗るのが少し怖いんですね。

以前どこかで、「最高の独裁より、最低の民主主義の方がまだまし」というような言葉を聞いたことがあります。たぶん『銀河英雄伝説』の言葉だったと思いますが、かなり印象に残っています。完璧な支配者がいればうまくいくかもしれない。でも、その完璧な支配者をどうやって保証するのか。次の支配者も完璧なのか。そこを考えると、やはり権力を一か所に集めすぎるのは怖いと思うんです。

【Q太郎の立場】反成長ではなく、反・支配

では、Q太郎は結局どの立場なのか。一言で言えば、反成長ではなく、「反・支配」なのだと思います。

経済成長そのものを否定したいわけではありません。資本主義を全部壊したいわけでもありません。企業が利益を出すことも、投資で資産を増やすことも、便利な商品が生まれることも、それ自体は悪いことではないと思っています。

ただし、お金や成長や消費に、人間が支配されるのは違うと思っています。

成長は道具です。神様ではありません。お金も道具です。神様ではありません。消費も道具です。自分の価値を証明するための儀式ではありません。

新NISAで投資するのもいい。インデックスファンドを買うのもいい。資産5000万円を目指すのもいい。FIREを目指すのもいい。でも、それらは人生を良くするための道具です。それ自体が人生の主人になってしまうと、かなり苦しくなります。

たとえば、資産5000万円を目指して頑張る。これはいいと思います。でも5000万円に到達したあと、今度は減るのが怖くて何も使えない。そうなると、お金が主人になっています。FIREを目指す。これもいいと思います。でもFIREしたあとも、SNSで他人と比べ続けて苦しむなら、自由になったはずなのに、また別の競争に戻っていることになります。

Q太郎が目指したいのは、成長を利用するけれど、成長に人生を差し出さないことです。お金を使うけれど、お金に使われないことです。資本主義の便利さは使う。でも、資本主義の欲望ゲームに全部乗らないことです。

半径5メートルの豊かさ

では、どうすればお金や成長に支配されにくくなるのか。

Q太郎は、かなり地味ですが、自分の半径5メートルの生活を整えることが大事だと思っています。遠くの誰かの豪華な生活ではなく、自分の机、自分の部屋、自分の食事、自分の睡眠、自分の散歩、自分の読書、自分の家計。ここがちゃんと整っているかどうかです。

たとえば、温かいお茶を飲む。Q太郎の場合は刺激物が苦手なので、お湯が多いですけどね(笑)図書館で本を借りる。散歩する。スーパーで買った普通の食材でご飯を作る。昔買ったゲームをじっくり遊ぶ。こういうものは、SNSではあまり映えません。でも、生活を支える力はかなり強いと思います。

脱成長という言葉を使わなくても、こういう生活はかなり反消費的です。何でも買うわけではない。見栄に使うわけではない。必要なものは買う。好きなものには使う。でも、広告やSNSに煽られて、いらないものまで買わない。

これは資本主義を否定しているわけではありません。むしろ、資本主義の中で自分の生活を守る技術だと思います。

お金は使います。投資もします。必要なら商品も買います。でも、自分の人生の中心を市場に明け渡さない。広告に欲望を決めさせない。SNSに幸せの基準を決めさせない。ここがかなり重要だと思うんですね。

成長は利用する。でも支配されない

そんなわけでまとめると、Q太郎は脱成長そのものではありません。インデックス投資をしている以上、経済成長の恩恵は受けていますし、技術進歩や企業の成長も完全には否定していません。

ただし、お金や成長や消費に人間が支配される社会には、かなり違和感があります。必要のないものを買うために働く。見栄を張るために消費する。SNSで成功者らしく見せるためにお金を使う。お金を「感謝の量」や「神様」のように扱う。そういう方向には、かなり距離を取りたいと思っています。

一方で、資本主義が嫌だからといって、すぐに共産主義や大きな政府に行けばいいとも思っていません。理想が立派でも、実際にそれを動かすのは人間です。権力を持つ人間が腐敗しない保証はありません。人間社会は、そんなに単純ではないんですね。

だからQ太郎の立場は、反成長というより、反・支配です。成長は利用する。でも成長に支配されない。お金は使う。でもお金に使われない。資本主義の便利さは受け取る。でも欲望ゲームには全部乗らない。

これが、今のところのQ太郎の答えです。

皆さんは最近、「これは本当に欲しいものではなかったな」と感じた買い物はありますか。あるいは逆に、「これは地味だけど、自分の生活をちゃんと豊かにしてくれた」と感じるものはありますか。よかったらコメントで教えてください。 

数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。

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