「退屈」を利用する消費社会ーこうして人は貧しくなる【FIRE/退職/人生】

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taikutu syouhi

新NISA一括投資→即毎月定率取り崩し運用中のQ太郎です。

今回は人間の2大不幸の一つである「退屈」を消費社会ではどう利用されているのか、それにどう立ち向かうのかについてです。

本記事をYouTube動画で観たい方はこちらのリンクから。

「暇」と「退屈」について

こんなご質問をいただきました。

「40代でFIREした者です。

「人は退屈に耐えきれず、苦痛を求めることにより、苦痛と退屈の間を行ったり来たりする」というのはよく理解できました。

ゲームをするのも、映画を観るのも、旅行へ行くのも「蓄積する苦痛への第一歩」というのも実感として理解できます。たしかにずっと同じことをしていれば、どんなことでもだんだんと苦になっていくので、はじめた瞬間というのは楽しいのではなく、苦への第一歩ということにもなりますね。

私も昔は旅行をたくさんしていましたが、だんだんと疲れてきて、苦痛になっていきました。いまはなにをするにしても、苦にならぬよう、執着せずそこそこでやっています。

そのため、「苦痛に耐えられない」というのは理解できますが、「退屈」の方は人によっては耐えられるような気がします。

退屈に耐えられないというのは、「駅で電車を待つときにスマホを観てしまう」とか、日常的なことで理解できますし、そういう人が世の中の大多数だとは思います。暇な時間を何かでつぶしにいくということですね。

しかし人によっては、スマホを観なくても時間をつぶすことができます。

例えば私自身も、家でゴロゴロしていても問題はありません。映画やゲームとかをいっさいやらなくても過ごすことができます。

このような差というのはどこから生まれてくるのでしょうか。退屈に苦しむ人たちとの差はどこにあるのでしょうか。

とのことです。

「退屈」については國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』という本が出ていますので、これを読んでいただければと思います。とくにFIREした人や退職した人は、今後の人生のためにもぜひ読んだほうがいいでしょう。けっこう分厚い本ですが、わかりやすく書かれていますので、おすすめです。キンドルアンリミテッドだと無料で読めますので、契約している人はぜひ読んでください。

ただこの本では、以前の動画で取り上げた「人は退屈と苦痛という人生の2大不幸の振り子の間を生きている」というショーペンハウアーの説については語られておらず、ハイデッガーの退屈論を中心にして論が展開されています。ハイデッガーの退屈論には欠点もあるため、著者がそれを補っていくという形で論が進んでいきます。

「本を読んでください」で話が終わってしまうのもあれなので、今回は本書を踏まえつつ、投資チャンネルでもあるので我々を取り巻く消費社会の罠的な面からアプローチしていきます。

暇と退屈

まず「暇」と「退屈」の言葉の定義です。「暇」と「退屈」は違います。

「暇」というのは、客観的な時間の空白になります。たとえば今日の午後2時から6時までは、仕事もスケジュールもなく、とくにやることもなければその時間は暇と言えます。

「退屈」は主観的な気分です。「なんだか退屈だな」という気分ですね。

そのため、「暇」と「退屈」は違うものですが、多くの人はこれを分けてつかってはいません。

「暇」、つまり客観的な時間的空白があった場合、多くの人はその空白な時間を「なんだか退屈だな」と感じてしまうわけです。そんなわけで多くの人にとっては「暇=退屈」になってしまいます。

ただ「暇ではないが退屈」というのも成り立ちます。たとえば仕事をしていれば、その時間は埋まっているわけで、暇ではないわけです。

ところがその仕事が単純作業だと退屈な気分になるでしょう。

つまり「暇」ではない(=客観的な時間の空白はない)けど、「退屈」ということになります。

定住生活をする前の人類は、移動を繰り返して獲物をとっていました。暇などほとんどないわけです。貯蓄するすべもありませんし、食い物にありつけなかったら死ぬわけです。

しかもつねに新しい環境で活動しなければならないので、環境に適応するために頭もつかわなければなりません。毎日毎日考えることも多く、「退屈」になる暇もないわけです。つまり「暇」もないし、「退屈」もないという状態です。ある意味、退屈という不幸がないので(というか退屈を考える必要もないので)、幸せと言えば幸せなのかもしれません。

ところが定住生活を始めると、時間的な余裕である「暇」ができます。さらに言えば、毎日の行動をルーティン化できるので、頭を使う量も減ることにより「退屈」もできてきます。「暇で退屈」というふうになっていくのですね。

ここで考えてほしいのが、人類の歴史です。定住する前の移動生活(専門用語としては遊動生活といいますが)の時期は400万年もあったのに対して、定住はたかだか1万年前からはじまったばかりです。遊動生活をしている時期の方が圧倒的に長いわけです。

毎日毎日頭を働かせて生きていた刺激的な遊動生活の時代から、定住へと生活スタイルを変更していくと、つねにフル回転していた頭脳からすると物足りなくなってしまうわけです。定住ですから景色もおなじ、やることもだいたいおなじ、つまり刺激が少なくて退屈になるのですね。

そうなると人は刺激を求めていろいろなことをやりはじめます。退屈をまぎらわせるために音楽やら踊りやら宗教やらと、文化がどんどん開発されていくのですね。

とくに現代では余暇が多くなっているので、レジャー産業が生まれてきます。自分でどうやって暇をつぶすのかがわからない人たちは、用意されたレジャーから選ぶという形になってきます。

自分のやりたいことがわかっていないので、企業が用意した「なんか面白そう」なものにとびつき、お金を払います。当然自分の本当にやりたいことではないので、満足度が低いわけです。すると「もっといいものはないか」と探し始め、どんどんレジャーの消費をおこないます。しかしいくら消費しても、自分の本当にやりたいことではないので満足しません。あくまで企業が用意したものなのですね。

こうやって消費はするけど、いつまでたっても満足は得られないというのが消費社会の本質になります。

つまり消費社会ではユーザーが望むものを売っているわけではなくて、企業が売りたいものを売っているだけなのですね。ユーザーは用意されたものを買い続けているだけなので、お金は払い続けるけどいつまでも満足が得られない、貧しい状態になります。

これはなぜかといえば、消費社会における企業は、記号や概念を売っており、我々はそれを消費しているのです。モノを使い倒したり、吸収して消費しているのではないのですね。

たとえば車にしろ、冷蔵庫にしろ、iphoneにしり、毎年のように新製品が出てきます。冷蔵庫なんて冷やす以上の機能なんてそうそういらないのですが、それでも新製品が出るわけです。我々はモノではなく、新製品という記号や概念を買って消費しているわけです。モノを使い倒しているわけではないのですね。

ブランド品もそうです。バッグは本来モノを入れて運べればいいのですが、そこに我々はブランドという記号や概念を買うことをしています。

モノならある程度買えば、どこかで限度が来ます。ところが記号や概念ですから、いくら買っても何かが増えるわけではありません。いくら買おうと満足できませんので、さらにどんどん消費していくのですね。「iphoneの新作が出たから買う」「新モデルが出たから買う」とか、これらは記号や概念を買っているのですね。「新作」はいくらでも出せるので、きりがないわけです。

スマホゲームのガチャとかもこの原理を使っています。記号や概念はいくら買っても満足しませんし、限度がないわけです。企業側としては「満足しない」というのが重要なのですね。

こうやって消費社会では、暇のつぶし方のわからない「退屈」を感じる人たちに記号や概念を売りつけます。そしてそれらを買い続け、満足せずにひたすら貧しくなる人たちが量産されます。いくら買っても心が満足しない、そんな状態になってしまうのですね。そしてまた消費を繰り返すわけです。企業側としては狙い通りでおいしいわけです。

贅沢とはなにか?

ここでこの「記号や概念」を買わされる我々は、企業にどうやって対抗するかについてですが、『暇と退屈の倫理学』では「消費ではなく浪費をしろ」と述べています。

「贅沢」という言葉がありますが、これは「必要以上にモノを持つ」ということです。必要最低限より多くのモノを持つことですね。

「贅沢」は非難のまとになりますが、そもそも必要ギリギリで生活していたら、なにかアクシデントがあったとたんに立ちいかなくなります。現状維持のため、つねにピリピリしていなければならないので、そのような生活は豊かな生活とは言えません。

逆に言えば、人が豊かであるためには「贅沢」であることが必要とも言えます。

ただそうなると、「お金使いまくってモノ買いまくるのがいいことか?」と突っ込みが入ると思いますし、あまりモノを持ちたくないQ太郎的にもあまり納得のできるものではありません。

ここで本書では、「浪費」という言葉を定義します。これは「必要を超えてモノを受け取ること、吸収すること」です。

浪費は受け取ったり吸収しなければなければならないので、どこかでかならず限度が来ます。これが満足になります。

たとえばおいしいものでも、食べ続ければどこかで限度が来ます。服も買ったものをちゃんと着ていれば、体は一つしかないのでどこかで限界が来ます。本やゲームも、買ったあとにちゃんと読んだり遊んだりしつくせば、一生で読める本や遊べるゲームの量など限りがありますので、やはりどこかで限界が来るでしょう。どこかで満足するのです。

消費は「〇〇監督の新作」とか「東京で有名な三ツ星レストラン」とか、記号や概念がまず最初にあります。人はこれを消費するために店へ行ったり、モノを買ったりするわけです。そして人に「人気のお店行ったよ」とか自慢したり、インスタに写真をアップしたりするのですね。

これらはすべて、用意された記号や概念を消費しているのですね。この消費をはじめるときりがないわけです。「有名人の丸〇さんが通ってる店」とか、「今月のマストバイ」とか、そんな記号や概念に付き合い続けたらお金がいくらあっても足りませんし、そもそも他人から提示されたものなので満足度も上がりません。

企業戦略として、個人の「個性」をあおって消費させるというのがあります。ブランド品など、それを手に入れると「個性的になる」ということですね。消費者は「個性的でなければならない」との強迫観念を植え付けられます。そもそも他人が用意したという時点で、個性もくそもないですけどね。

さらにいえば、「そもそも「個性」って何?」って話です。実際のところ、人なんて毎日考えもコロコロ変わりますし、毎日老いていきます。つねに変化し続けるので、固定した自我なんてあったものじゃありません。会社では会社の立ちふるまいがありますし、学校では学校の、家では家の立ち振る舞いがあります。場面や時間で変わりますので、自我も個性もあったものじゃないというか、そのときそのときでコロコロ変わるわけです。諸行無常なわけです。

そのコロコロ変化する「個性」が完成することはありませんので、完成しないものにお金をどんどん払ってくれるお客様は、企業側からすればいいお客様なわけです。完成がないのでずっとお金を落とし続けるしかありません。永久に満足しませんので、いくらモノを買おうが、ひたすら「何かが足りない」という不満足の日々が続きます。

消費社会においては、消費すればするほど満足度が下がっていってしまうのです。現代における「退屈に苦しむ人」というのも、この「永遠に満足しない消費社会」から生み出されているとは思います。

この「消費」から抜けて、しっかりモノを受け取り吸収する「浪費」ができれば、好転するのではないかとは思います。

ちなみに「浪費」はモノだけでなく、知識もあります。多くの本を読み、多くの知識を吸収するということですね。

 

まとめ

そんなわけでまとめると、

・『暇と退屈の倫理学』を読もう。

・「暇」は客観的な時間の空白。「退屈」は主観的な気分。

・現代は「暇」はないけど、「退屈」な人が増えている。(退屈な仕事などですね)

・人類の歴史からすると、遊動生活の400万年に対して、「暇」ができるようになった定住生活はたかだか1万年。そもそも暇に慣れてない。暇なときに何をしていいのかわからない人が多数。

・企業はそれに対し、売りたいものを売るという構造。人は自分の望みではなく、企業が用意したものを消費する。

・「浪費」はモノや知識を受け取り、吸収すること。どこかで限度、満足がある。

・「消費」は、記号や概念を受け取り消費するので限度がない。いくら消費しても満足には到達しない。

・近年は「個性」をあおって消費させる。消費者は「個性的でなければならない」という強迫観念を受け付けられる。

・そもそも人の考えなど場所や時間でコロコロ変わる。完成した「個性」など存在しないし到達しないので、企業側としてはお金を落とし続けるおいしいお客様になる。

・「消費」ではなく「浪費」をしたほうが満足度が上がる。

・現代において退屈に苦しむ人は、余暇の過ごし方がわからず、用意された記号や概念を消費しつづける人たち。

となります。

正直、『暇と退屈の倫理学』の「浪費」の定義は、Q太郎の感覚だとあまり納得できるものでもないのですが、とにかく手に入れたものをしっかり使い倒せば、無駄な消費はなくなるでしょう。本だったらしっかり読む、ゲームだったらしっかり遊ぶ、使わないならさっさと売るか捨てるか人にあげる。いろいろなものをがっつり吸収していくことが、生活の豊かさにつながるとは思います。

買ったあと使わないとなると、それは記号や概念を買ったことになるので、きりのない消費がはじまるわけです。買っては積んで、買っては積んでとなってしまうのですね。

「退屈」についてはまた別の機会で掘り下げていこうと思います。