「足るを知る」はただの妥協?【FIRE/退職/人生】

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taru wo shiru

新NISA一括投資→即毎月定率取り崩し運用中のQ太郎です。

今回は「足るを知る」が妥協なのかどうかについてです。

本記事をYouTube動画で観たい方はこちらのリンクから。

楽しむことのできる人・できない人

こんなご質問をいただきました。

いつも動画をありがとうございます。

これまでの動画を観てきたところ、FIRE後の生活を楽しめる人と楽しめない人がいますが、根本的な違いは何なのでしょうか。

仏教的な考え方だと、少しのことでも満足できる、いわゆる「足るを知る」ということも生活を楽しむ上で重要になってくるとは思いますが、これは見方を変えれば「我慢している」「妥協している」ということにも成り得ます。

FIREといっても、生活としては結構金銭的にカツカツな人が多いとは思います(まあ、人によるとは思います)。

本来したいことを金銭的な理由で我慢して、「足るを知る」という言葉でごまかしている感じがして、小さくまとまってしまっているような気がします。

FIREしてから朝から晩までゲームをしていて、生活に満足感が得られないという人がいますが、ゲームはコストの低い娯楽なので金銭的理由でそれをやっている、他にも旅行とかいろいろやりたいけど金銭的理由でできないみたいな感じがします。つまり金銭的理由で、行動が限定されてしまっているのです。

「散歩が好き」「読書が好き」というのも、妥協の産物ではないかとも思っています。

かと言って、旅行へ行ったら楽しめるのかと言えば、やはりそうでない人もいます。コストをかければいいというものでもないとは思います。

まとまりがなく抽象的な質問で申し訳ありませんが、このような妥協した生活に満足感があるものなのでしょうか。

とのことです。

質問内容をまとめると、

・「足るを知る」はたんに金銭的理由で妥協しているだけでは?

・ただし、コストをかければ楽しめるわけでもない。

ということになるとは思います。

ちなみに前回の動画の質問者様は、旅行をしまくった結果、「だんだんと疲れてきて、苦痛になっていった」と述べていましたね。それでいまはそこそこでやっているそうです。

「足るを知る」で考えると、これは逆に「足りすぎてもう疲れた」みたいな状況です。

人は退屈に耐えられない生き物で、退屈になれば苦痛を求めるというように、退屈と苦痛の間を行ったり来たりしています。

ゲームをするのも、旅行をするのも、すべては苦のはじまりです。苦が積み重なって、やがては耐えられなくなります。すると今度は、退屈までいかないぐらいのそこそこを求めます。もしくは新しいことを始めたりしますね。

そういうことをいろいろやっていって、退屈と苦痛の間で微調整していくというのが、合理的な生き方という気はします。

ブッダが「人生はすべてが苦」とおっしゃったように、苦痛と退屈の2大不幸からは逃れられないので、どうやって折り合いをつけていくが重要になるでしょう。

「足るを知る」は妥協?

まず「足るを知る」が妥協かどうかですが、そもそもの意味は「満足する気持ちを持ちなさい」ということであって、「妥協しなさい」や「我慢しなさい」という意味ではありません。

「足る」は「満足」「充足」の意味にもなるので、「足るを知る」=「満足・充足を知る」ということです。「妥協」や「我慢」はそもそも「満足」ではありません。というか、真逆の「不満足状態」ですね。

自分の持っているものというのは、物体的な持ち物だけでなく、自分の能力や人との関係など、形のあるもの、形のないもの、すべて含めた自分の持ち物ですね。

「金銭的理由でゲームを遊んでいる」というのは、「足るを知る」の本質とはまったく関係がなく、たんに「お金が無いから代わりにゲームを遊んでいる」というそのままの意味でしかないとは思います。ようするに単に「お金がない」という世知辛い話ですね。「足る」を知っているわけではまったくありません。妥協や我慢している以上、心の中は不満でいっぱいになっています。完全に真逆の精神状態です。

そのため、「旅行に行きたいけどお金が無いから、ゲームをやって「足るを知る」か」という話であれば、満足感も何もあったものじゃないので足るを知らないわけです。

あくまで精神的に「満足する気持ち」を知っているかどうかですね。

これはブッダの言葉の「足るを知る人の心は穏やかであり、足るを知らない人の心はいつも乱れている」というところからきています。

どんなことでも満足のできる人は、いちいちイライラしませんので、心は穏やかです。

どんなことでも満足しない人は、つねにイライラしていますので、心は乱れています。

クソゲーを遊んでも「何このクソゲー(笑)」と楽しみながらプレイできる人は「足るを知る」のだと思います。どんなものからも面白さを引き出せる、満足感を引き出せるのですね。

ここで重要なのは、あたえられたものを受け身的に楽しむのではなく、自分から面白さを見つけ出せるかどうかです。対象物に対して、自らがアプローチしていくという姿勢です。受動的ではなく能動的なのですね。

例えばネットフリックスとかアマゾンプライムビデオで観た映画がつまらなかった場合、「つまんねー」ですぐに別の映画を観てしまうのか、そんな映画の中にも面白さを見つけ出せるのかで、結構違ってくるとは思います。つまらない映画でも、観ながら「何がつまらないのか」を分析したり、ネタにしてブログでも書いてやろうみたい感じで楽しむことができます。ストーリーはつまらないけど、セットやキャラクターはいいのでそのあたりを楽しむというのもありますね。能動的に映画を楽しみに行くというものです。

逆に見る映画をコロコロと変え続けてしまう人は、そもそも完璧な映画など存在するはずがありませんから、たぶんそのあともずっと映画を変え続けるとは思います。自分で面白さを見つけ出すのではなく、相手がおもしろいものを差し出してくるまでずっとガチャを引き続けるという受動的な態度ですね。

クソゲーを遊ぶ時も、ブログで感想を書いたり、ゲーム実況動画を撮ったりすれば、多くの人を楽しませることができるでしょう。一人でクソゲーを遊ぶのは正直苦痛ですが、観る方からすれば面白かったりします。

そんなわけで与えられた素材に対して能動的に働きかければ、積極的に「足るを知る=満足を知る」ことができるとは思います。

ゲームを遊んで満足感が得られないというのは、遊び方が受動的になっているのかもしれません。そもそもゲームが面白くないという問題もあるとは思いますが、そんな場合でもいかに楽しみを引き出せるかを訓練しておくと、どんなものにも満足できる「足るを知る」という状態に持っていけるでしょう。

知り合いで、『Age of Empire 2』というシミュレーションゲームをいまだにひたすら遊び続けている人がいますが、こういうのもある意味「足るを知る」の精神とは思います。それだけあれば満足な状況ですね。

ちなみにQ太郎の両親も、Windowsにあるソリティアをひたすら何年も遊んでいたりします。他のゲームを紹介しても「覚えるのが面倒だから」とソリティアしか遊びませんね。

楽しむには知識も必要

何かを「楽しむ」には知識も必要です。

前の動画で紹介した「暇と退屈の倫理学」にも書かれている話ですが、例えば我々が森を散歩したときと、植物学者が散歩したときとでは、見える世界が違うわけです。

植物の知識がないと、「木」とか「草」とかという認識になってしまい、下手すれば意識の上にものぼってきません。駅までいく途中にどんな木が生えているとか、どんな花が生えているとか、意識している人はどれだけいるでしょうか。とくに何度も通る道だと、「そんなものあったっけ」みたいな感じになってくるとは思います。人間はすべての情報を受け取っているわけではなく、取捨選択して重要な情報、理解できる情報だけ受け入れているのですね。つまり我々は主観的にモノを観たり聴いたりしているわけです。

植物学者が森を歩けば、我々とは違う量の情報を受け取るわけです。我々が気にしていないようなものまで見えるわけですね。すると植物学者にとって森の散歩は楽しいのです。見えている世界が違うのですね。

昆虫学者が歩けば、昆虫学者の視点でまた違う世界がそこに広がるでしょう。

このような世界を獲得するために必要なのは知識です。知識は目に見える世界を広げてくれます。

つまり楽しむために必要なのは「勉強」ということになります。

勉強というとテストとか受験とかで嫌なイメージがありますが、学校でやらされる勉強と、自発的にやる勉強とでは楽しさは違います。

散歩が好きな人は、植物や昆虫の知識があればさらに楽しめます。ただ歩くだけでなく、歩きながらいろいろな楽しめます。

個人的におすすめなのは、食べられる野草を覚えておくことです。ツクシ・タンポポ・ヨモギ・ノビルあたりはわかりやすいですね。野草の知識があると、「お金なくても最悪生きられるじゃん」みたいな楽な気持ちになってきます。ついでに調理の仕方も覚えたりと、知識を広げていくと世界が変わるでしょう。なにげなく歩いていた道が別物になります。

クラシック音楽や演劇も、知識がないと退屈だったりしますが、自分で実際に演奏してみたり、演劇をやってみたりといった経験(ようは知識)があると、全然見えるものが変わってきます。

絵とかも、絵を描く人から見れば全然違うものが見えているわけですね。

ゲームも、歴史シミュレーションゲームだったら歴史を知っている人と知らない人とでは楽しさは違うでしょう。むしろゲームをきっかけに歴史の知識を深めていくのもいいかもしれません。「三國志」のゲームを遊んで、三國志に詳しくなったという人もいますしね。

そんなわけで、「足るを知る」とは妥協とはまったく無縁の、自分自身の知識や行動を鍛えて高めないと得られない境地とも言えます。「持ってるもので妥協する」とか、そういうぬるい話ではまったくないのです。

毎日いろいろ学んで、毎日つねに精進しないといけないのです。

「三大幸福論」の一つを書いたアランは、「本当の学問は、目の前にある小さなものに集約されるものではない。「知る」とは、どんな小さなものもあらゆるものとつながっているということを理解すること」と述べています。何か学んで終わりではなく、学べばまた新たなものが見えきます。

我々も含めすべてのものはつながっており、単独で何かが存在できるわけではないのですね。人間も酸素とか食べ物とかないと生きていけませんしね。どんなものも単独では成り立たないわけで、それを知ることこそが知識とも言えます。そうやって自分の存在を謙虚に考えていけば、「足るを知る」の心持ちに近づけるとは思います。このあたりの考え方は仏教の「縁起」に近いものがありますね。

 

まとめ

そんなわけでまとめると、

・「足るを知る」とは「満足・充足を知る」ということ。どんなことにも「満足する気持ち」を持てること。

・妥協や我慢は「不満足」。真逆の精神状態。

・「足るを知る」には能動的に楽しみを見出す能力が必要。相手のよこすものをただ受け取るだけだと、いつまでたっても不満足状態。

・知識を増やせば、引き出せる楽しみも増える。そのために勉強が必要。

・「足るを知る」の境地に至るには、毎日学び、毎日精進して、自分を高める必要がある。簡単ではない。

・ブッダ曰く「足るを知る人の心は穏やかであり、足るを知らない人の心はいつも乱れている」

・アラン曰く「「知る」とは、どんな小さなものもあらゆるものとつながっているということを理解すること」。

・あらゆるものはつながっており、すべてのものは単独では存在できない。人間も空気や食べ物が無ければ生きていけない。それを知ることが知恵となり、そうやって自分の存在を謙虚に考えていけば、「足るを知る」に近づけるかも。

となります。

そんなわけで「足るを知る」は妥協とかぬるい話ではまったくなかったりします。知恵と知識をつけ、心を鍛えていかないとたどりつけない境地です。

その境地を日々めざしていくことが、ストレスなく人生を楽しく過ごすことにもつながるとは思います。

知識と知恵でつねに満足を知れば心は穏やかですし、それが日々の幸せにもつながっていきます。心に余裕もできますし、いちいち小さなことでまわりの人と争う必要もありませんしね。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の境地ですね。

そんなわけで、仕事でも趣味でも、自分のやっていることを能動的に深めていって、「足るを知る」の境地に達すれば、何をしようが満足した人生が過ごせるとは思います。