
こんなコメントをいただきました。
「50代になり、何もかもめんどくさいと感じます。ああ、これをやらなきゃと先読みしすぎて、めんどくさくなるパターンと、脳が疲れすぎて、何もかもめんどくさくなるパターンがあります。ぜひ、めんどくさいについて、Q太郎さんの意見を聞きたいです」
とのことです。ありがとうございます。
「何もかもめんどくさい」
これ、50代になると、かなり分かる話ではないでしょうか。
新しいゲームを見ても、ルールを覚えるのが面倒くさい。
お店で安くなるオンラインクーポンも、登録するのが面倒くさい。
面白そうな場所があっても、行くのが面倒くさい。
近所のお祭りも、行くのが面倒くさいみたいな感じですね。
若いころなら、とりあえずやってみようと思ったことを、年をとってくると、始める前に最後まで予測します。
そして、こう思います。
「まあ、だいたい分かる。以前にも似たようなことをやった」
実際には、そのゲームは遊んでいません。
近所のお祭りにも行っていません。
しかし頭の中では、すでに経験が終わっています。「だいたいこんなものか」みたいな予測で終わらせます。
50代の「何もかも面倒くさい」は、体力が落ちたという話だけではないと思います。
若い頃は、そもそも初めてですし、よくわからないのでとりあえず試してみますが、年をとると、人生経験が増えたことで、まだ経験していないことまで「経験済み」にできてしまうのではないでしょうか。
そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に飲み込まれないための生存戦略を独自の視点で解説します。
今回は「なぜ50代からは、何もかも面倒くさいのか。人生を経験済みにする人たち」を深掘りしていきます。
・三つの話
今日は大きく三つ話します。
一つ目、人生経験が増えると、なぜ始める前から結末が見えてしまうのか。
二つ目、なぜ新しいことまで「だいたい経験済み」に分類してしまうのか。
三つ目、何でも挑戦しようと頑張らずに、経験済みの人生から少し外へ出る方法です。
最後に、人生経験は未来を読む力なのか、それとも人生のネタバレなのか。Q太郎なりの見立てを置いて終わります。
・一つ目・始める前に最後まで見える
それでは一つ目、人生経験が増えると、なぜ始める前から結末が見えてしまうのかです。
若いころは、経験が少ないので、その先で何が起こるかをよく知りません。
旅行へ行こうと聞けば、楽しそうが先に来ます。
新しいゲームを見つければ、面白そうが先に来ます。
恋人ができれば、うれしいが先に来ます。そのあとに待ち受ける苦難の日々とか別れとかは考えないのですね。
そんな感じで、若い時はプラスの面を見て、とりあえずスタートを切ります。そのあとに発生する手間や面倒は、実際に経験してから知るわけです。
ところが50代になると、一つの行動に何が付属してくるかを知っています。
旅行へ行くなら、予約を調べる。
荷造りをする。
早起きをする。
電車や飛行機で移動する。
観光地は混んでいる。
帰宅したら荷物を片づける。
そして翌日、疲れたまま普通の生活へ戻ります。
「旅行へ行こう」という一言を聞いた瞬間に、楽しそうな景色だけでなく、帰宅後の洗濯物まで見えるのですね。
趣味も同じです。
たとえばゲームを見て、「これはスターソルジャーのパクリだし、やらなくていいかな」とか、「スーパーマリオシリーズなんて全部同じじゃん」とかで、やる前から結論を作ってしまうわけですね。Q太郎がまさにこれです。
RPGとかはクリアまで20時間ぐらいかかるし、その時間で映画を10本観たほうが経験が多くなるじゃんとか計算するわけです。
漫画でも、「ジャンプ漫画、だいたい最後はバトルものになって、ほとんど一緒じゃん」とかなるわけですね。
そんな感じで、若いころは「見えていなかった」ので、未知なる世界へ勢いで入っていけました。
50代では、過去の経験が、その勢いへ先回りします。そしてストップをかけるわけです。
これは、能力が落ちたというより、むしろ予測する能力が上がった結果でもあります。人生経験の産物ですね。
何を始めれば、どんな手間が発生するのか。
どこで疲れるのか。
どんな理由で飽きるのか。
そして、だいたいその予測は当たります。
当たるからこそ厄介なのですね。
失敗が怖くて動けないだけではありません。
成功するまでに必要な面倒まで見えすぎて、始める前に、もう十分だと思ってしまいます。始める前に疲れているわけです。Q太郎がRPGを買いたくない理由がまさにこれです。レベル稼ぎしたくないし、プレイ時間稼ぎのためのお使いクエストをやりたくないし、変に強いボスと戦いたくない。
人生経験は、危険を避けるためには役立ちます。
しかし経験が多くなることで、何を見てもだいたいの予測ができて、最初に面倒が立ち上がります。
まだ体は何もしていないのに、頭の中では、未来を最後まで描いて、すでに経験済みになっているのです。
・二つ目・未経験まで経験済みにする
二つ目、なぜ新しいことまで「だいたい経験済み」に分類してしまうのかです。
人は経験を重ねると、目の前の物事を、過去に知っている型へ当てはめられるようになります。
初めて見る飲食店でも、外観とメニューを見れば、だいたいこんな味だろうと予測できます。
新しい映画の予告を見れば、この種類の話なら、途中でこうなり、最後はこう終わるのだろうと思います。
新しいゲームを見ても、以前遊んだ、あの作品に似ていると分類します。
新しい人と知り合っても、このタイプの人とは、以前こうなったと思い出します。
そして、実際にそのとおりだったりします。
経験が少ないころは、目の前の物が、未知のものとして入ってきます。
経験が増えると、未知のものを、既知の何かの亜種として処理できます。
この処理は便利です。
一から全部を調べなくても、失敗を避けられます。
怪しい投資話とかを素早く見抜けます。
自分に合わない物へ、無駄なお金や時間を使わずに済みます。
ただし、この分類が強くなりすぎると、実際には初めての物まで、もう知っている話になります。正確に言えば、知っているものに分類してしまうのですね。
旅行は、移動して観光して疲れて帰るだけ。
ゲームは、ルールを覚え、同じ作業を繰り返し、最後には終わるだけ。
人間関係は、そのうち気を遣って面倒になるだけ。
このざっくりとした大きさで分類すれば、人生のほとんどは経験済みにできます。
外食も、食べておなかがいっぱいになるだけです。
人生そのものも、起きて、何かをして、寝るだけになります。
もはや何をしても同じですね。
しかし、同じ型に見えることと、同じ経験になることは別です。
どの旅行も、家を出て、最後には家へ戻ります。
それでも、途中で見る景色や、起きる出来事まで同じではありません。
どの本も、文字を読んで最後のページへ着きます。
それでも、読んだあとに残る言葉は違います。
人生の大きな型は、50代ぐらいになれば、たしかに、だいたい経験済みです。
しかし私たちが実際に受け取るものは、その型の途中にあります。
ところが先読みをしすぎると、途中を体験する前に、最後の結論だけを受け取ります。
「どうせ、こうなる」
この一言で、未経験の出来事を、過去の分類へ移します。
人生経験が未来を読むための地図ではなく、まだ行っていない場所へ「行ったことがある」と印をつける道具になるのですね。
・三つ目・経験済みを一度だけ疑う
三つ目、経験済みの人生から少し外へ出る方法です。
ただ、「何にでも挑戦しよう!」というキラキラワードで頑張るのは、50代以降はちょっと違う気もするので、そのあたりも気をつけつつの話です。
というか、Q太郎的には、そこまで頑張らなくてもよいと思います。
50代から、若いころのように、何でも試す必要はありません。というか、これまでじゅうぶん経験してきたでしょう。
経験によって、自分に合わないことが分かったのなら、やらなくてよいとは思います。いろいろ経験して、まだわからないほうが問題あるとは思います。
昔、何度も登山をして、やっぱり山は好きではないと分かった人が、好奇心のためにまた山へ登る必要はありません。
Q太郎も知人に勧められてスキューバダイビングをやっていて、40メートルまで潜れるライセンスも取ったのですが、数年後にフィリピンの深海の中で、「楽しさがわからん。というか、ここで酸素無くなったら死ぬやん。なんで楽しくないことに命かけているんや」と、われに返ってやめました。
あと車の運転も、やっていてストレスがすごいので、車は売りました。「ドライブを楽しむ」という感覚がいっさいありませんでした。
そんな感じで、経験は、不要な物を切るためにも使えます。
ただ、新しい物を見た瞬間に「これは経験済み」と思ったとき、その判定だけを一度疑ってみるのもいいとは思います。
本当に同じなのか。
それとも、似た型へ早く入れただけなのか。
ここで、必ず始めると決める必要はありません。
旅行なら、予約から帰宅後の片づけまで、一度に背負わない。
まず行き先の写真だけを見る。
新しいゲームなら、最後まで遊ぶ契約をしない。体験版を少し触るぐらいにするとかですね。最近は体験版だけでもけっこう遊べたりしますしね。
新しい店なら、通い続けることまで考えない。一度だけ、昼食を食べに行く。
大きな新生活を始めるのではなく、過去の予測が本当に当たるか、小さく確かめます。
面倒だと思ったら、途中でやめてもよいのです。
始めたら続けなければならないと思うから、開始が重くなります。
少し触って、やっぱり以前と同じだったと分かれば、それも経験です。
予測どおりなら、安心してやめられます。ただQ太郎は、一度始めたゲームを途中でやめるとモヤモヤするので、言うほど簡単ではないですね。
そんな感じで、予測どおりならやめる。予測と違ったら、もう少し続けてもよいでしょう。
大切なのは、過去の経験を無視することではありません。
過去の経験を、未来への判決ではなく、小さく試すための仮説として使うことです。
「以前こうだった。だから今回も絶対にこうなる」ではなく、「以前こうだった。今回も同じか、少しだけ見てみよう」と考えます。
経験が増えた50代だからこそ、何でも始める必要はありません。もうじゅうぶん、いろいろなことを経験していますしね。
ただし、何でも始める前に、「だいたいこんな感じか」と終わらせる必要もないのですね。ちょっと不明瞭な点があれば、そこだけ齧ってみるとかですね。
・まとめ
最後に、人生経験は未来を読む力なのか、それとも人生のネタバレなのか。Q太郎なりの見立てを置いて終わります。
50代になり、何もかも面倒くさいと感じる。
それは、怠け者になったからとは限りません。
人生経験が増え、何かを始めたあとに発生する面倒が、よく見えるようになったからかもしれません。
旅行と聞けば、帰宅後の疲れや、荷物の片付け、洗濯物まで見える。
趣味と聞けば、飽きたあとの道具の処分まで見える。
人間関係と聞けば、いつか距離を置くときの気まずさまで見える。
予測の精度が上がった結果、体を動かす前に、頭の中で全工程を終えています。
そして目の前の新しい物を、過去に経験した何かの亜種へ分類します。
「まあ、だいたい分かる」
この一言で、まだ経験していない人生まで、経験済みにします。
Q太郎は、人生経験には、人生を安全にする力と、人生をネタバレする力の両方があると思っています。
先が読めるから、大きな失敗を避けられます。
しかし先を読みすぎれば、まだ始まっていない物語の結末まで決めてしまいます。
しかも困ったことに、予測はだいたい当たります。
旅行へ行けば疲れます。
趣味を始めれば、覚えることがあります。
物を買えば、いつか処分する日が来ます。
全部、当たり前と言えば、当たり前です。
でも、大きな型が当たることと、その途中に新しいものが何もないことは同じではありません。
Q太郎の見立てでは、50代の「面倒くさい」は、未来を知らないことへの恐怖ではありません。
未来を知っているつもりになることで、起きるのだと思います。
何もかもが面倒なのではありません。
何もかもが、もう知っている話に見えてしまうのです。
だからといって、若者のように何でも挑戦する必要はありません。
面倒だと思ったとき、その面倒を尊重して、やらないことも選べます。
ただ「これは経験済み」と判定した瞬間に、本当に同じなのかを一度だけ疑ってみる。
始めるなら、最後まで背負わず、小さく触ってみる。
過去の経験を、未来を禁止する判決ではなく、未来を少し安全に試すための道具へ戻します。
50代になると、人生を経験する前に、経験済みにできてしまいます。
しかし、その予測から少しだけ外れたところに、まだ経験していない人生が残っているのかもしれません。
そんな感じで、Q太郎自身も気をつけなければいけないことなので、今後も注意していきたいとは思います。
皆さんは、新しいことへ興味を持っても、その後の面倒を先読みして、始める前にやめた経験がありますか。また「だいたい知っている」と思って試したら、予想と違っていたことはあるでしょうか。よければコメントで教えてください。全部読ませていただいています。
数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。
ではまた、Q太郎でした。この動画を気に入っていただけましたら、高評価・チャンネル登録をよろしくお願いいたします。
