こんなご質問をいただきました。
「友達が欲しい人は、「友達欲しいオーラ」を出してしまうので、逆に友達ができないというのはありますね。人間関係を頑張りすぎないことがいいとは思います。しかし老後に人間関係がないというのも問題とは思いますが、そのあたりはどうお考えでしょうか?」
とのことです。ありがとうございます。
確かに「友達欲しいオーラ」は、FIREや退職後の人間関係を構築するときは気をつけたほうがいいですね。
知り合って、まだ二回目くらいの人がいます。
少し話が合いました。
すると次の日から、頻繁に連絡が来るようになったりします。
今度、二人で食事へ行きませんか。
休みの日は、いつも何をしていますか。
家族とは、うまくいっていますか。
次はいつ会えますか。
こちらは、まだ顔と名前を覚えたくらいです。
しかし相手は、すでに親しい友達のように距離を詰めてきます。
こういうとき、多くの人は、うれしいより先に少し警戒すると思います。
何か売られるのではないか。
宗教かもしれない。
ネットワークビジネスかもしれない。
そこまでではなくても、なぜこんなに急いでいるのだろうと思います。
相手が悪い人とは限りません。むしろ、すごい親切な人だとは思います。
ただ、友達を作りたいという気持ちが強すぎて、こちらとの関係を、実際より何段階も先へ進めようとしているのですね。この距離感の違いで警戒されてしまうわけです。
50代になると、老後の孤独について、いろいろなことを言われます。
会社を辞めると、人間関係がなくなる。
今のうちに、会社以外の友達を作っておいたほうがよい。
地域の活動へ参加したほうがよい。
趣味の仲間を増やしたほうがよい。
人間関係の少ない老後は悲惨だとか、人間関係が豊富なほど、健康寿命は延びるとか、そんな情報が飛びかっていますしね。
そういう話を聞くほど、友達を作らなければと焦ります。
ところが友達を作ろうと頑張るほど、その焦りが「友達を作ろうオーラ」になって相手へ伝わり、かえって人が離れていくことがあります。
そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に飲み込まれないための生存戦略を独自の視点で解説します。
今回は「50代から友達を増やさなくていい。孤独を恐れて人間関係を増やす人たち」を深掘りしていきます。
・三つの話
今日は大きく三つ話します。
一つ目、なぜ友達を作ろうとすると、相手に警戒されてしまうのか。
二つ目、なぜ老後の孤独を、友達の人数で解決しようとしてしまうのか。
三つ目、友達を直接作ろうとせず、どのように人と関わればよいのかです。
最後に、50代から本当に増やしたほうがよいものは、友達の人数なのか。Q太郎なりの見立てを置いて終わります。
・一つ目・親しさには相手の速度がある
それでは一つ目、なぜ友達を作ろうとすると、相手に警戒されてしまうのかです。
友達を作りたい人は、出会った相手との共通点を探します。
同じゲームが好き。
同じ作家の本を読んでいる。
出身地が同じ。
年齢が近い。
共通点が一つ見つかると、この人とは気が合うと思います。
そして、できるだけ早く関係を深めようとします。
連絡先を交換する。
次の約束をする。
個人的な話をする。
相手にも、個人的な話を求める。
しかし、自分は友達になりたいと思っていても、相手はまだ顔見知りでいたいかもしれません。
ここには、人間関係の速度差があります。
自分は五十キロで近づいている。
相手は五キロくらいで様子を見ている。
それなのに、共通点があったという理由だけで一気に距離を詰めれば、親しさより圧力を感じます。
友達になりたいという気持ちは、善意です。それ自体は悪い事ではありません。
しかし善意であっても、相手がまだ渡していない親しさを、先に受け取ろうとすれば怖くなります。
人は、言葉だけを見ているわけではありません。
この人は、自分自身に興味があるのか。
それとも、「友達」という空席へ、自分を座らせようとしているのか。
そこも、何となく感じ取ります。とくに「自分に興味がないのに、友達にしようとしている」というのは感じやすいですね。
老後に話し相手が必要だから。
休日を一緒に過ごす人がほしいから。
孤独な人に見られたくないから。
そうした「自分のため」という目的が前へ出ると、目の前の相手は、一人の人間ではなく、「自分の寂しさを埋める要員」になるわけです。
相手からすれば、まだ何者かも分からないのに、将来の役割だけを期待されている状態です。
それは警戒されても仕方がありません。
友達を作ろうオーラとは、単に積極的であることではないと思います。
相手の速度を見ずに、自分の不安の速度で関係を進めようとすることです。
つまり、相手のことをまったく見ていないし、考えてもいないのですね。自分のことしか考えていないわけです。
相手もロボットでないので、そういうのは感じ取れてしまうわけです。「この人は、私自身には全然興味がない」というわけですね。
・二つ目・人数で孤独を解決しない
二つ目、なぜ老後の孤独を、友達の人数で解決しようとしてしまうのかです。
友達が多い人は孤独ではない。
友達が少ない人は寂しい。
こう並べると、とても分かりやすいですね。
数字で見えるからです。
連絡先が何件あるか。
一か月に何人と会ったか。
年賀状が何枚届くか。
誕生日に、何人からメッセージが来るか。
人数なら、自分の人間関係が足りているかを簡単に判断できます。
これはお金と同じです。
老後資金は何千万円あれば安心なのか。
友達は何人いれば孤独にならないのか。
不安になると、目標とする数字がほしくなります。
しかし友達は、口座残高のように足し算できません。
十人いれば、一人の十倍安心できるわけではありません。
大勢と会っていても、自分の話をできなければ孤独です。物差しが数字では無いのですね。
反対に、何週間も誰とも会わなくても、一人の時間を気楽に過ごせる人は、必ずしも不幸ではありません。
ここでは、孤独と孤立も分けたほうがよいと思います。
病気になったとき、助けを求める相手も制度もない。
生活上の問題が起きても、誰ともつながれない。
これは孤立の問題ですので、相談先や地域との最低限の接点を持つことには意味があります。システムの問題です。
しかし、一人で食事をする。
休日に誰とも会わない。
趣味を一人で楽しむ。
これは、ただ一人でいるという状態です。
本人が苦痛でなければ、直ちに直すべき欠陥ではありません。べつにそれで楽しければ、それでいいとは思います。むしろ逆に、人いることが負担になる場合もありますしね。「孤独のグルメ」の主人公も、一人で食事をしますし、それが救われることだと言っているわけです。
それでも一人でいると、なんだか気まずさがあって、「友達がいない寂しい人」に見られる気がします。このあたりは世間体の問題ですね。
老後は仲間に囲まれ、毎日を楽しく過ごすべきだという広告もあります。
旅行をする。
趣味の集まりへ行く。
みんなで笑う。
そこに、一人で静かに読書や散歩をする老後は、あまり出てきません。企業もそんなことをされたら、商売になりません。
一人で過ごして満足されたら、売れる商品やサービスが少なくなりますしね。
人間関係まで、充実している証拠を求めると、友達の人数が成果になります。
すると相手と過ごすことより、その人を友達として確保できているかが気になります。人間の道具扱いが始まるわけです。
連絡が来ないと不安になる。
誘いを断られると、関係が減ったように感じる。
新しい知り合いができると、早く友達へ昇格させたくなる。
こうして孤独を避けるために作った人間関係が、今度は維持しなければならない資産であり、道具になります。
友達を失わないために、気の進まない誘いへ参加する。
嫌われないように話を合わせる。
老後の自由のために作ったはずの関係が、もう一つの会社になるのですね。人間関係のポートフォリオを維持する毎日になっていくわけです。
・三つ目・友達以外の目的を持つ
三つ目、友達を直接作ろうとせず、どのように人と関わればよいのかです。
友達は、何か別のことをしている途中で、結果としてできることが多いと思います。
学校では、同じ教室に通います。
会社では、同じ仕事をします。
趣味の場では、同じ活動をします。
最初から友達になることだけを目的に集まったわけではありません。
別の目的で、同じ場所に何度も居合わせます。
少し話す。
また会う。
相手がどんな人なのか、少しずつ分かる。
約束を守る人なのか。
こちらが疲れているとき、放っておいてくれる人なのか。
意見が違っても、急に怒らない人なのか。
そうした小さな確認が積み重なり、あとから振り返ると、友達になっていたと気づきます。
ですから趣味の集まりへ行くなら、友達を作りに行くのではなく、その趣味を楽しみに行けばよいと思います。友情を求めるより、ゆるいつながりでいいのですね。
読書会なら、本の話をする。
ゲームの集まりなら、ゲームをする。
地域の活動なら、目の前の作業をする。
気の合う人がいても、急いで距離を縮めません。
その日、少し楽しく話せたなら、それで終わりです。
次に会えたら、また少し話します。
友達になるかどうかは、何度か会った先の結果へ任せます。
相手が近づいてこなければ、その距離を尊重します。
関係を前へ進めないことは、失敗ではありません。
顔見知りのままでいられる関係もあります。
会えば挨拶する人。
その場だけ一緒に楽しむ人。
困ったときだけ情報を交換する人。
人間関係をすべて友達へ育てなくてもよいのですね。
植物を見つけるたびに、全部を自宅へ持ち帰って鉢植えにしたら、世話ができなくなります。
公園で会ったときだけ眺める植物があってもよい。
人間関係も、そのくらいの距離がちょうどよいことがあります。
大切なのは、友達を増やすことより、人と知り合ったときに、その人が望む速度で関係が育つ余白を残すことです。
そして誰とも会わない日は、一人で過ごせるようにしておく。
自分の寂しさを、出会ったばかりの相手へすべて解決してもらおうとしない。
一人でも過ごせる人のほうが、相手へ急いで役割を求めずに済みます。
結果として、その余裕が、人を遠ざけない距離感になるのだと思います。
・まとめ
最後に、50代から本当に増やしたほうがよいものは、友達の人数なのか。Q太郎なりの見立てを置いて終わります。
Q太郎は、50代から友達を増やさなくてよいと思っています。
友達が必要ないという意味ではありません。
すでにある大切な関係を切れ、という話でもありません。
老後不安を解決するために、友達の人数を目標へしなくてよいということです。
友達を作らなければと焦ると、目の前の相手を見なくなります。
この人と、今の距離で話すのが心地よいかではなく、この人を友達にできるかを考えます。
まだ顔見知りでいたい相手へ、友達の距離を求めます。
そして、その焦りが友達を作ろうオーラになり、人を遠ざけます。
友達は、直接作ろうとするほど作りにくいものです。
友達以外の目的で同じ時間を過ごした結果、いつの間にか友達になっています。
趣味を楽しむ。
本の話をする。
一緒に作業する。
その時間自体に意味があれば、友達にならなくても損はありません。
というか、もっと友達の定義を緩く考えたほうがいいとは思いますね。そうじゃないと、「友達断捨離」とか言い出す、痛い人になってしまうわけです。友達の定義に、謎の厳しさがあるのですね。
若い時は未熟ですし、友情とか青春とか、いろいろ作品でそのあたりの友情パワー的なものを補強されてしまっているので、そんな感じでもいいですけど、50代を越えてもまだそのレベルだと、いい年してどうなんだろうという感じもしてきます。
言ってみれば、そういう「友達」というのは、「敵か味方か」という二元論的な話をしているわけですね。だから味方でなければ敵なので、関係を切るという単純かつ極端な断捨離思考になってしまったりするわけです。他者に対しても、人生のコントロール感が欲しいわけです。
ただ、いい年になってくると、「世の中は白黒つけられないし、他人なんかコントロールできないし、人生は思い通りにならないから、それ前提で動かないといけない」と悟ってくるものなのですが、どうも世の中が便利になっていくと、そのあたりが悟りづらくなってくるとは思います。
そんな感じで、50代以降は、友達がいなくても、その日は好きなことをして過ごせる余裕や余白がほしいわけです。
人間関係に成果を求めないから、相手の速度を待てるのですね。
老後の孤立へ備えることは必要ですが、それはシステムの問題です。
助けを求められる制度や連絡先、社会との細い接点は持っておいたほうがよいでしょう。
しかし、孤立への備えと、友達を大量に確保することは同じではありません。
友達は、老後に備えて積み立てる金融商品ではありません。
人数を増やし、定期的に連絡して、残高を維持するものでもありません。
Q太郎は、50代から増やしたほうがよいのは、友達の人数より、関係を急がない余裕と余白だと思っています。
顔見知りを、顔見知りのまま大切にする余裕。
誘われなくても、自分の価値が減ったと思わない余裕。
相手が離れたければ、追いかけない余裕。
そして、誰とも会わない日を、自分で過ごせる余裕です。
一人でいられない不安を抱えたまま友達を探すと、相手へ自分の孤独を背負わせます。そして、うざいやつ扱いされます。
一人でも過ごせるなら、相手を孤独対策ではなく、その人自身として見られます。
友達を増やすことをやめたとき、目の前の人と、無理のない速度でつながれるようになる。そんな感じで、ゆるくつながっていけばいいとは思います。厳しすぎる「友達」の定義を、とりあえず無くしたほうがいいですね。
皆さんは、知り合って間もない人から距離を急に縮められ、警戒した経験がありますか。また、友達になろうとしなかったのに、いつの間にか長く続いていた関係はあるでしょうか。よければコメントで教えてください。全部読ませていただいています。
数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。
ではまた、Q太郎でした。この動画を気に入っていただけましたら、高評価・チャンネル登録をよろしくお願いいたします。
