
こんなコメントをいただきました。
「現代社会は過剰な広告によって消費をうながされています。私もそうでしたが、小さい頃から、消費が当たり前と思わされているのですね。お金が中心の価値観になってしまうのも無理はないと思います。」
とのことです。ありがとうございます。
これについては、マイケル・サンデル教授の著書「それをお金で買いますか」でも指摘されていますね。
たとえば公的機関でも、予算確保のために、この商業主義は浸透してしまっているのですね。企業からお金を受け取って、それで公共施設に広告を許可するということです。
著書では、「生徒はハーシーチョコレートやマクドナルドが提供する無料教材で栄養学を学ぶ」とか、「キャンベルスープが提供した無料科学キットで、生徒は同社のスパゲティソースが、ライバルブランドのソースよりも濃厚であることを証明する方法を学ぶ」とか、なかなか皮肉のきいた面白い事例があげられています。
科学というのは本来、仮説を立て、実験をして、その結果から考えるものです。
しかしこの教材では、最初から企業にとって都合のよい結論が用意されているわけです。生徒は、その結論へ到着するための実験をするのですね。
科学を学んでいるように見えて、じつのところは、企業の宣伝文句へ科学的な衣装を着せる授業になっています。
普通の広告なら、これは商品を売るための宣伝だと分かります。
しかし無料教材として学校へ入り、先生が授業で使えば、宣伝は知識の顔をします。
広告が教室の壁へ貼られたのではありません。
広告が教材のふりをして、先生の席へ座ったのです。
企業から学校へお金や教材を提供する代わりに、学校という教育の場所へ広告を入れてよいのか。それを著書では討論しています。
考えてみれば、現在の私たちも、無料ゲームや無料漫画、SNSや動画など、広告と引き換えに提供される物に囲まれています。
そして子どものころから、何も欲しくない時間より、何かを欲しがる時間のほうを、長く過ごしています。
そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に飲み込まれないための生存戦略を独自の視点で解説します。
今回は「広告に囲まれて育つと、欲望は誰のものになるのか」を深掘りしていきます。
・三つの話
今日は大きく三つ話します。
一つ目、広告が学校へ入ると、教育の中身はどのように変わるのか。
二つ目、無料ゲームや無料漫画で、私たちは何を代金として払っているのか。
三つ目、広告は商品だけでなく、どのように消費の習慣を教えるのかです。
最後に、企業が並べた欲望と、自分の欲望をどう分ければよいのか。Q太郎なりの見立てを置いて終わります。
・一つ目・広告が先生の席へ座る
それでは一つ目、広告が学校へ入ると、教育の中身はどのように変わるのかです。
サンデル教授の著書では、企業が学校へお金や設備、教材などを提供する代わりに、校内へ広告を入れる事例が紹介されています。
廊下や体育館へ企業のロゴを出す。
スクールバスへ広告を載せる。
企業広告を含むニュース番組を、授業時間に生徒へ見せる。
資金の足りない学校からすれば、教材や設備を無料で提供してもらえることには、現実的な利点があります。
古い教材しかない。
必要な機材を買えない。
授業へ使える予算が少ない。
そこへ企業が、新しい教材を無料で持ってきてくれます。
学校は助かります。
企業は、多くの子どもへ自社の商品を見せられます。
数字だけを見れば、どちらにも利益のある取引です。一見、ウィンウィンの関係ですね。
しかしサンデル教授が問うているのは、取引として得か損かだけではありません。
商業主義を教育の場へ持ち込むことで、教育という活動そのものが変わらないか、という問題です。ひいてはそれが「正義」なのかということですね。「これから正義の話をしよう」なわけです。
たとえば校舎の壁にチョコレートの広告があるだけなら、まだ広告と授業を分けて見られます。これもこれで問題はありますが、まあ、とりあえずよしとしておきましょう。
ところが企業が作った教材を使い、その企業の商品で栄養や科学を学ぶと、境界が分かりにくくなります。
子どもは広告を見せられているのではなく、正しい知識を教わっていると思います。
キャンベルスープの教材が面白いのは、科学の方法を使いながら、企業に都合のよい結論へ向かうところです。
どちらのソースが濃厚なのか、自由に調べるのではありません。
キャンベルの商品がライバルより濃厚だと示すために、実験します。
授業の形をしていますが、最後に残るのは、企業の商品が優れているという印象です。
教育は本来、与えられた結論を疑う力も育てる場所です。
しかし広告が教材になると、企業が用意した結論へ上手にたどり着くことが、学習になります。
広告が教室へ入る問題は、子どもがチョコレートやソースを欲しがることだけではありません。
企業の販売目的が、栄養や科学と同じ顔で語られることです。
何を知識と呼ぶのか。
誰が授業の問いを決めるのか。
何を正しい結論とするのか。
そこまで、お金を出した側が少しずつ決めるようになります。
学校が広告枠を売ったつもりでも、実際には、子どもが世界を見る枠組みの一部まで売っているのかもしれません。
・二つ目・無料の代金は注意力
二つ目、無料ゲームや無料漫画で、私たちは何を代金として払っているのかです。
現在は、無料で楽しめる物がたくさんあります。
スマホゲームを無料で始められます。
漫画を何話か無料で読めます。
動画やSNSも、料金を払わずに使えます。
無料で提供できるのは、誰も費用を負担していないからではありません。
広告主が費用を出したり、一部の利用者が課金したりすることで、サービスが成り立っています。さすがにそこは慈善事業ではないわけです。
利用者はお金を払わない代わりに、広告を見る時間を渡します。
画面を見ていた注意を中断され、企業の商品へ向けられます。
ゲームの続きをしたければ、漫画の次の話へ進みたければ、広告を一本見る。
動画を見ている途中で、別の商品を見せられる。
一回は数十秒でも、毎日繰り返せば、かなりの時間になります。
ただ、失っているのは時間だけではありません。
もともと知らなかった商品を知ります。
興味のなかったゲームが、少し気になります。
自分の服や生活へ、すでに持っているゲームへ、不足を感じます。
広告を見る前には存在しなかった「欲しいかもしれない」が、頭の中へ残ります。
広告は、すでに欲しい物を安く知らせるだけではありません。
欲しい物がなかった人へ、欲望の候補を渡します。
無料教材と無料ゲームは、まったく同じ物ではありません。
しかし、無料という形で生活の中へ入り、その代わりに企業が人の注意を受け取るところは似ています。
学校では、教材を提供する代わりに、子どもへ企業の商品を見せます。
スマホでは、娯楽を提供する代わりに、利用者へ広告を見せます。
どちらも、最初は企業からの贈り物に見えます。じっさい、なんかポイントとか、ガチャ無料券とかくれますしね。
しかし、その贈り物を受け取ることで、企業は普通なら入れなかった時間と場所へ入ってきます。
教室の授業中。
ゲームで遊んでいる時間。
漫画を読んでいる時間。
眠る前に、ぼうっと画面を見ている時間。
生活の中に、広告が存在しない場所が少しずつ減っていきます。
私たちは、無料で楽しんでいるようで、注意力を細かく切り分け、少しずつ企業へ渡しているのですね。
・三つ目・何も欲しくない時間を許さない
三つ目、広告は商品だけでなく、どのように消費の習慣を教えるのかです。
広告は、直接この商品を買えと命令するだけではありません。
今のあなたには、何かが足りない。
この服があれば、もっと魅力的になれる。
このゲームへ課金すれば、もっと快適に進められる。
この商品があれば、もっと便利に暮らせる。
この体験をしなければ、時代に遅れる。
現在の自分と、商品を買ったあとの理想の自分を並べ、その間に不足を作ります。
子どものころから広告に囲まれていると、個々の商品名だけでなく、この不足の解決方法を覚えます。そしてその解決方法は、お金です。
退屈したら、新しいゲームを探して買う。
ゲームで進めなくなったら、課金を考える。
自信がなくなったら、服や化粧品を探して買う。
休日が空いていたら、お金を使う予定を入れる。
何か満たされないものがあるとき、最初に商品を探します。お金で解決しようとします。チンパンジーでもできる、一番簡単な解決方法です。
消費を教えられるとは、たくさん買えと一度だけ言われることではありません。
不満、退屈、不安の出口として、商品を選ぶ習慣を身につけることです。
しかも現在の広告は、こちらが売り場へ行くまで待ってくれません。
漫画を読んでいるときも、ゲームをしているときも、動画を見ているときも、欲望の候補を運んできます。最近はAIが選んでくれたりします。
何も欲しくない状態でいると、次の広告が、何か欲しい物を提案します。
欲しい物がなければ、広告の中から欲しい物を探します。
以前の動画で、セールがあって、そこで何を買おうかと考える時点で、買い物の順番が逆だという話をしました。
本来は、自分の欲しい物が先にあり、それが安くなっていれば儲けものです。
しかしセールが先にあり、そこから欲しい物を選べば、企業が作った選択肢の中で、自分の欲望を探すことになります。五千円以上買えば、ポイント二倍還元とかですね。
広告に囲まれた生活でも、同じ逆転が起こります。
自分が何を望んでいるかを考える前に、企業から欲望の一覧表を渡されます。
その中から自分らしい物を選び、自分で決めたと思います。
しかし選択肢を並べたのは、自分ではありません。
広告は、欲しい物を教えるだけではありません。
何も欲しくない時間を許さないのです。
・まとめ
最後に、企業が並べた欲望と、自分の欲望をどう分ければよいのか。Q太郎なりの見立てを置いて終わります。
サンデル教授が紹介した学校では、企業の商品を使って栄養や科学を学びます。
表面上は、企業が無料教材を提供し、学校の教育を助けています。
しかし教材の中には、企業が見せたい商品と、企業が導きたい結論が入っています。
広告が教材のふりをして、先生の席へ座ります。
現在の無料ゲームや無料漫画でも、似たことが起こります。
利用者は無料で娯楽を受け取り、代わりに注意力を渡します。
広告を見て、新しい商品を知ります。
それまで感じていなかった不足に気づきます。見る前は幸せで満足していたのに、見てから欲しい物が出てきて、不足を感じるのですね。
そして、その不足を埋めるため、また別の商品を探します。
もちろん、広告をすべてなくせばよいという単純な話ではありません。
広告によって無料や安い価格で利用できるサービスがあります。
知らなかった商品の中から、本当に役立つ物が見つかることもあります。
問題は、広告があることを忘れ、そこで生まれた欲望まで、最初から自分のものだったと思いこまされることです。
Q太郎は、広告に囲まれて育つことで教えられるのは、商品の名前だけではないと思っています。
満たされないときは、何かを買えばよい。
退屈したときは、何かを消費すればよい。
無料で受け取るなら、自分の注意を企業へ渡すのは当然である。
こうした市場の作法を、生活の作法として覚えます。これが「当たり前」になってしまうのですね。
その結果、何も買わない時間、何も欲しがらない時間、退屈なまま過ごす時間が、空白に見えてきます。
空白ができるたび、スマホを取り出して開きます。
広告が、その空白へ次の欲望を入れます。
海水を飲むのとおなじで、飲んでも飲んでも渇きはおさまりません。仏教でいうところの、渇愛の状態ですね。一瞬満足するだけで、「もっともっと」で不満足が繰り返されていくわけです。
Q太郎の見立てでは、広告から自分を守るとは、広告を一枚も見ないことではありません。
何か欲しくなったとき、その欲望がどこから来たのかを、一度だけたどることです。
広告を見る前から欲しかったのか。
自分の生活で本当に困っていたのか。
誰にも見せなくても、それを使いたいのか。
それとも、企業が用意した不足へ、自分を当てはめただけなのか。
すぐに答えが出なくても構いません。
欲しいと思った瞬間に買わず、広告の声が少し静かになるまで待ちます。
自分の欲望は、企業が並べた一覧表の外にもあります。
何も買わずに、ぼうっとする。
すでに持っている物を使う。
散歩をする。
自分で料理をする。
広告にならない時間の中で、自分が本当は何をしたいのかが、少しずつ見えてきます。
子どものころから広告に囲まれていても、すべての欲望を企業へ明け渡す必要はありません。
広告が教えた欲望と、自分の中から出てきた欲望を分け直す。
Q太郎は、それが、お金に飲み込まれないための教育を、自分でもう一度やり直すことだと思っています。
皆さんは、広告を見るまで欲しくなかった物を、急に欲しくなった経験がありますか。また、無料だと思って使っていたけれど、実際には注意や時間をかなり渡していたものはあるでしょうか。よければコメントで教えてください。全部読ませていただいています。
数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。
ではまた、Q太郎でした。この動画を気に入っていただけましたら、高評価・チャンネル登録をよろしくお願いいたします。
