なぜ人は「必要ない物」まで欲しくなるのか。「高い物を買う」のは「愚かさのせいではない」理由。

takai oroka

Q太郎のお金の哲学です。

今回は、なぜ人は「必要ない物」まで欲しくなるのかについてです。

Youtubeで観たい方は以下のリンクから。

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なぜ人は「必要ない物」まで欲しくなるのか

最近ちょっと面白いというか、妙なことに気づいたんですよね。Q太郎って、ゲームのセールとか見てると結構危ないんです(笑)

最初は「ちょっと見るだけ」なんですよ。買う気なんてないんです。

ところが気づいたら、「75%オフ」「期間限定」「残り12時間」とか並んでいて、なぜかカートの中に増えてるんですよね。

それで買ったあとに、「あれ……Q太郎これ本当に欲しかったんだっけ?」ってなることがあるんです。

皆さんもありませんかね。コンビニに飲み物だけ買いに行ったのに、気づいたらお菓子まで増えていたり。Amazonで必要なものを探していたのに、全然関係ないおすすめ商品を見ていたり。

で、ちょっと思ったんですよ。これって本当に自分で買ってるんだろうかって。

ようこそ。Q太郎のお金の哲学チャンネルへ。賢く資産形成をしつつ、お金に悩まされないための生存戦略を日々発信しています。

今回なんですが、「なぜ私たちは消費させられるようになったのか」という話を、一緒に見に行こうと思います。

ただこれ、企業が悪いとか、人間の意思が弱いとか、そういう単純な話でもないみたいなんですよね。

歴史を見ても、心理学を見ても、生物学を見ても、結構同じ方向を指してるんです。

新自由主義の台頭

まず少し昔を見に行くんですが、1950〜60年代ぐらいって、西側諸国では戦後の黄金時代なんて言われていたんですよね。

景気が良くて、生活水準もかなり上がっていく時代です。冷蔵庫とか洗濯機とかテレビとか、そういう家電もどんどん普及していきました。

ここまでは普通に良いことなんです。便利になりますしね。

ただここから少しずつ景色が変わっていきます。それまで労働って、「良いものを作る」とか、「仕事に誇りを持つ」みたいな部分も結構強かったんですが、豊かになってくると今度は、「もっと欲しい」「もっと便利に」「もっと快適に」という方向が強くなっていくんです。

それで1970〜80年代ぐらいになると、今度はイギリスのサッチャー政権や、アメリカのレーガン政権が出てくるんですよね。ここで「新自由主義」という考え方が強くなっていきます。

新自由主義っていうのは、「政府より市場や個人の力を重視しよう」という考え方ですね。
それで規制緩和や民営化なんかが進んでいくんですが、今回ちょっと面白いのはそこなんです。

社会全体が、「みんな同じ」よりも、「個人で選ぶ」という方向へ少しずつ動いていくんですよ。

ここで企業側からすると、かなり面白いことが起きるんです。例えば昔はテレビが一家に一台だった。でもそれが一人一台になる。人数は増えてないのに、売れる数だけ増えてるんですよね。

これテレビだけじゃありません。車もそうです。部屋もそうです。色んなものが、一人一個になっていく。つまり「個人の自由」が増えると同時に、「売れる市場」も大きくなっていったわけです。

ただここで終わらないんですよね。実は問題って企業側だけじゃないみたいなんです。人間側にも、ちょっと厄介な本能があるんです。実は問題って企業側だけじゃないみたいなんです。
人間側にも、ちょっと厄介な本能があるんですよね。

ここで昔の経済学者が出てくるんですが、19世紀の終わり頃に、経済学者のソースティン・ヴェブレンという人がいました。

それでこの人が、かなり面白い言葉を残してるんです。「顕示的消費」。聞き慣れない言葉なんですが、ざっくり言うと「使うため」じゃなくて、「見せるため」の消費ですね。これは以前の動画でも話した、「見栄の消費」のことです。

人間って、自分の位置を確認したり、「自分はこういう人間ですよ」というシグナルを送るために、消費を使ってしまうことがあるんですよね。

今回はその続きというか、さらに一歩先の話なんです。じゃあ、なぜそんな本能が人間に備わったのか。そこを今日はちょっと見に行きたいんですよね。

例えば時計でも、バッグでも、車でもいいんですが、機能だけで言えばそこまで大きな差がないものって結構ありますよね。

時間を見るだけなら数千円の時計でも十分かもしれません。バッグも、物を運ぶだけなら別に高級ブランドじゃなくてもいい。

でも不思議なことに、人間って値段の高い方が欲しくなることがあるんですよね。ここちょっと怖いところなんですが、Q太郎も完全に他人事じゃないと思っています。

例えば皆さんもありませんかね。友達との飲み会とかで、隣の人が新しいスマートウォッチを付けている。別に欲しくなかったはずなのに、「あれ……ちょっと良いな」ってなる瞬間。

数日前まで存在すら忘れていたのに、急に欲しくなる。あれ結構不思議ですよね。必要だから欲しいんじゃなくて、「比較」が始まってるんです。

それでヴェブレンは、人間って社会の中で自分の位置を確認するために、消費を使っている部分があるんじゃないか、と考えたんです。

つまり、「自分はこれぐらいの人間です」というシグナルですね。ただここで終わらないんですよ。

シグナリング理論

ここから急にクジャクが出てきます(笑)

実はダーウィンって、クジャクの羽がかなり嫌いだったらしいんですよ。「あんなもの非効率じゃないか」と。確かにそうですよね。

羽が大きすぎますし、逃げにくそうですし、敵にも見つかりやすそうです。生き残るだけなら、もっと小さい方が良さそうです。

ところが後の研究で、「シグナリング理論」という考え方が出てくるんです。シグナルっていうのは、簡単に言えば「私はこういう存在ですよ」というサインですね。

クジャクの大きな羽って、「これだけ重い羽を持っても元気に生きられるぐらい丈夫ですよ」という証明になっているんじゃないか、と考えられたんです。羽の模様も、その個体が病気にかかりやすかとか、そういう情報が入っているんです。

ここ、ちょっと人間に戻してみると結構面白いんですよね。高級時計。高級車。大きな家。もちろん本当に好きで買う人もいます。

ただ一部には、「自分は成功しています」「自分には価値があります」というシグナルの役割もあるかもしれないんです。

しかも嫌な話なんですが、人間社会って実際にシグナルが効くこともあるんですよね。高級ブランドを身につけている人の方が、信頼されやすかったり、要求が通りやすかったりする研究もあります。

冷静に考えると、少し理不尽ですよね。背広を着ている人と、ボロボロの服の人がいたら、同じ話をしていても受け取り方が変わることがあります。

見栄の消費は生存本能

だから見栄の消費って、「バカだからやる」とか、「貧しいからやる」という単純な話でもないんですよね。むしろ結構自然な本能なのかもしれません。生き残りたい。認められたい。仲間から外れたくない。異性から魅力的に見られたい。人間が何万年も持っていた本能ですからね。

ただ問題はここなんです。現代って、生き残るためのシグナルが、昔と比べてものすごく巨大になってる気がするんですよ。昔なら村の中だけだった比較が、今はスマホ一台で世界中と比較できる。

SNSを開いたら、旅行してる人。高級車に乗ってる人。大きな家に住んでる人。成功している人。そういう情報が、ものすごい量で流れてくる。

そうすると、自分でも気づかないうちに、「足りない」という感覚になっていくんですよね。

だからQ太郎が今回思ったのはこれなんです。消費すること自体は悪くない。人生を豊かにしてくれる道具もあります。

少し立ち止まる

ただ、「本当に欲しいから買う」のか。それとも、「不安だから買う」のか。ここだけは少し立ち止まって見てもいいのかなと思います。

要するにこれ、消費そのものの問題じゃないんですよね。「見栄の消費」なのか、「意思の消費」なのか。その違いなのかもしれません。

おカネは主人じゃありません。道具です。そして道具なら、本来は自分で選ぶ側のはずなんですよね。だから次にAmazonを見るときとか、セールを見るときって、Q太郎もちょっと考えたいんですよね。

「安いから買う」なのか。「欲しいから買う」なのか。それとも、
「不安だから買う」なのか。

ここって結構似てるんですけど、よく見ると全然違うんですよね。
例えばQ太郎もゲームのセール見てると危ないんです(笑)
「75%オフ」
って出ると、
「今買わないと損する」
って思うんですよ。

でも冷静になると、別に今遊ばないんですよね。
一か月後かもしれないし、一年後かもしれない。
ひどい場合だと、そのまま積まれます(笑)

これってゲームが欲しかったというより、「損したくない」という感情を買っていたのかもしれないんです。

消費って、物を買ってるようで、実は感情を買ってることも結構ある気がするんですよね。
安心とか。
優越感とか。
所属感とか。
不安の解消とか。

だからQ太郎は最近、
「何を買うか」
よりも、
「何の感情を買おうとしてるんだろう」
の方を少し見るようにしています。

すると結構面白くて、
「あ、これ別にいらないな」
ってなることが増えた気がします。
ただ、ここでもう一つちょっと怖い話があるんですよね。

さっきからずっと、
「企業が売りたい」
「人間がシグナルを出したい」
という話をしてきたんですが、現代ってこの二つが、かなり強力に組み合わさってる気がするんですよ。

比較対象が広くなる

昔だったら比較する相手って限られてたんです。
村の中とか。
学校とか。
会社とか。

せいぜい周りの数十人とか数百人ぐらいだったと思うんですよね。

でも今って、朝起きた瞬間から比較が始まるんです。

スマホ開いたら、
旅行してる人。
ブランド物を買った人。
投資で成功した人。
FIREした人。
すごく幸せそうな家族。
ものすごい量の情報が流れてくる。

それで厄介なのは、人間の脳って、それを全部まともに受け取っちゃうところなんですよね。
Q太郎もあります(笑)

「別に欲しくなかったのに」
「別に気にしてなかったのに」

気づいたら、
「あれ……Q太郎、なんか遅れてる?」
みたいな感覚になることがあるんです。

でも冷静に考えると、結構変な話なんですよね。
昨日まで満足してたんですよ。
普通にご飯食べて。
普通にゲームして。
普通に生活してた。
でもスマホを10分見ただけで急に足りなくなる。

昨日と今日でQ太郎自身は何も変わってないんです。
変わったのは、見た景色だけなんですよね。
ここ、かなり面白いところだと思うんです。

以前話した「欲望の模倣」にも少し近いんですが、人間って、自分で欲しがってるようで、実は周りの欲望をコピーしてることが結構あります。
「あの人が欲しそうだから」
「みんな持ってるから」
「それが成功っぽく見えるから」
もちろん全部が悪いとは思わないんです。
憧れって成長のきっかけにもなりますしね。

ただ、問題はそこに終わりがないことなんです。
なぜなら比較相手が世界中にいるから。
一人超えたと思ったら、また次が出てくる。
ゲームで言うなら、永遠に新しいボスが出てくる感じですよね(笑)
しかも強制参加です。

参加したくなくても、スマホを開いたら勝手に始まる。
だからQ太郎が最近思うのは、お金の問題って、実は収入の問題だけじゃない気がするんですよね。

「いくら持っているか」
だけじゃなくて、
「誰と比べているか」
もかなり大きい気がするんです。

誰がハンドルを握っているのか

だからQ太郎が最近思うのは、消費って単純に「買う」「買わない」の話じゃない気がするんですよね。
もっと言うと、
「いくら使ったか」
よりも、
「誰がハンドルを握っていたか」
の方が大事な気がするんです。

例えば同じ10万円でも、
ずっと欲しかったものを買う10万円と、
不安に押されて使った10万円って、多分全然違うと思うんですよ。
Q太郎もあります(笑)

セールで安くなってるのを見ると、
「今買わないと損する」
って思うんです。

でも少し時間を置いてみると、
「あれ……別に今じゃなくても良かったな」
ってなることが結構あるんですよね。

これ面白いところなんですが、人間って物を買っているようで、実は感情を買っていることも結構ある気がするんです。
安心感とか。
優越感とか。
所属感とか。
あるいは不安の解消とか。

だから最近Q太郎は、買い物するときに少しだけ考えることがあるんです。
「何を買うか」
じゃなくて、
「何の感情を買おうとしてるんだろう」
って。

すると結構面白くて、
「あ、これ本当に欲しかったんじゃなくて、焦ってただけか」
とか、
「これ不安を消したかっただけか」
って思うことがあるんですよね。

もちろん全部が悪いわけじゃありません。
人生を豊かにしてくれる消費って絶対あります。
Q太郎だって、パソコンなんかは人生かなり変わりましたしね。
ただ、人間って放っておくと結構簡単に流される生き物なんだと思うんです。

企業も売りたい。
人間にも本能がある。
しかも今はSNSまである。
そう考えると、消費に流されること自体は、ある意味かなり自然なことなのかもしれません。

だから必要なのは、「欲しがるな」ではなくて、ほんの少し立ち止まることなのかなと思います。
これは本当に欲しいのか。
それとも不安なのか。
見栄なのか。
誰かと比べているのか。
その数秒だけでも、結構景色が変わる気がするんですよね。

要するにこれ、「見栄の消費」なのか、
「意思の消費」なのか。
その違いなのかもしれません。

今日の話をしていて、Q太郎もちょっと気になったんですが、「欲しい」と「なんか不安」の境目って結構難しいですよね。皆さんは最近ありましたかね。よかったらコメントで教えてください。

数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。

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