
こんなコメントをいただきました。
「資産が増えると、だんだんと人に知られたくなくなってきますね。他人との比較とかどうでもよくなってきます。」
とのことです。ありがとうございます。
「見栄の消費」の話は以前もしましたが、人間というのはやはり見栄を張りたがるものです。とくに資産が少ない人ほど、社会的地位を引き上げるために、ブランド品とかを買って見栄の消費をしがちです。
逆にお金持ちは、社会的地位を証明する必要がなくなっていきますので、だんだんとユニクロになっていくわけです。
それでSNSを開けば、誰かの高級ホテルの写真や、資産が何千万円になったという報告が流れてきます。資産形成を頑張っていると、ああいうキラキラした情報が流れてきても冷めた目で見ている、というかたも多いんじゃないかと思います。なんか正直どうでもいいというか、高級ホテルに泊ったからどうなんだという話です。結論はなんやねんという話ですね。Q太郎は海外から戻ってくると、ホテルより漫画喫茶に泊まりたいです。漫画が読みたい。ホテル泊っても漫画読めない。
でもこういう情報を見て、「うらやましいな。自分も泊まりたいな」と思う人もいるわけです。
以前の動画でも言いましたが、この手の自慢話は、他人との比較の燃料になりやすいし、とくに身近な人からは嫉妬や恨みを買う原因にもなります。少なくとも尊敬はされることは無いとは思います。表面上は「すごいですね」と言っても、心の中では何考えているかわからないわけです。
今回はその続きというか、逆の角度から話したいんですね。つまり、自慢をしない静かな金持ちでいることのほうが、実は一番幸せなんじゃないか、という話です。
そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に振り回されないための生存戦略を日々発信しています。今回は「静かな金持ちが一番幸せな理由」を深掘りしていきます。
・比較という地獄から降りる
まず、資産を公開した瞬間に何が起きるかというところから整理します。
以前も言いましたが、人間は相対的にしか物を判断することができません。「長い」というのは「短い」があるから存在できるのであって、すべては相対的なのです。
「お金持ち」が存在できるのも、「貧乏」とか「一般層」とかの概念があるからですね。「お金持ち」が単独で存在することはできないのです。平均年収とか、何かと比較して「お金持ち」なのです。
つまり脳そのものが、比較でものを判断しているのですね。
それで数字を出した瞬間、その数字は他人にとって「自分より上か下か」を測る物差しに変わってしまうわけです。Q太郎自身が測るつもりがなくても、見た側が勝手に自分と比べはじめる。人間の脳がそういう仕組みになっているのです。比較でものを判断します。
そしてこの比較が、なかなか厄介なわけです。
こういうのは、忘年会や同窓会のような場でも、けっこうリアルに起きることだと思います。誰かがふと資産や年収、起業してうまくいっているとかの話を始めた瞬間、場の空気が微妙な感じになるわけです。みんな自分の立ち位置を頭の中で計算しはじめる。楽しかった飲み会が、急に品定めの場に変わってしまう感覚、なんとなく覚えのあるかたもいるんじゃないでしょうか。そしてその人がトイレに行くと、みんな陰口を言い始めたりするわけです。
そしてあとでその人が、事業に失敗したりすると、みんなメシウマなのです。「大変でしたね」「気を落とさず頑張ってください」と表面上はしれっと言いますが、心はうきうきブギブギしているわけです。
これ、リアル世界だけじゃなくて、オンラインRPGでも似たようなことがあります。最強装備という課金アイテムをこれ見よがしに街中で見せびらかして歩いていると、他のプレイヤーから絡まれたり、妬まれやすくなる。
逆に地味な格好で黙々と狩りをしているキャラクターには、誰も声をかけてこない。装備の強さそのものより、それを見せているかどうかのほうが、絡まれるかどうかを決めているんですね。
昔あったエアマックス狩りもそうですね。スニーカーの分際でやたらと値段が高い「エアマックス95」というがあって、これを履いている人が襲われる事件が多発していました。べつに犯罪を肯定するつもりはありませんが、「そんな高い靴履いてたら、そりゃ襲われることもあるだろ」という気はします。リスク高すぎて、Q太郎には絶対履けない。殴られたくない。
資産も、これに近い構造があるんじゃないかと思うんです。なんにしろ、人がうらやましがるものを見せびらかしていれば、それなりのリスクは発生するのです。
とくに身近な人ほど、自分の成功を素直に喜んでくれない。遠くの誰かの成功はニュースとして消費できても、隣の同僚や、昔からの友人の成功は、自分の立ち位置を脅かすものとして受け取られてしまう。
ドイツの哲学者ショーペンハウアーも、「他人の不幸は蜜の味」という、人間のちょっと意地の悪い部分について書いていますが、成功の場合はその裏返しが起きるわけです。「他人の成功はニガヨモギの味」です。
だから、数字を隠すというのは、ケチだからでも、見栄っ張りだからでもなく、自分の幸せを他人の評価という不安定な基準から切り離すための、静かな防衛術なんじゃないかと、Q太郎は考えています。
だから質問者さんの「資産が増えると、だんだんと人に知られたくなくなってくる」というのも、本当にその通りだとは思います。資産を守るためには、むしろ隠し通したほうがいい。
もう一つ、誰にも言わないことには、副次的な効果もあります。「誰かに見せるための消費」という誘惑が、そもそも発生しなくなるんですね。つまり「見栄の消費」が発生しなくなる。
ブランド品にせよ、高級車にせよ、「見せたい」という動機が消えると、本当に自分が欲しいものだけが残ります。これは、「足るを知る」という考えかたの、いちばん純度の高い形なんじゃないかと思っています。
ここからが、今回Q太郎が一番言いたいところなんですけど。
静かな金持ちでいるというのは、単に地味に生きるという話ではなくて、自分の幸福を他人の視線から守り抜くための、けっこう積極的な戦略なんじゃないかと思うんです。
・「貧乏なふり」という生活の知恵
ここからは、もう少し実利的な話をします。
資産を隠すことには、「人間関係のフィルター」としての働きがあります。
「宝くじに当たると、遠い親戚がやってくる」という言葉があるように、お金があると知られた瞬間に近づいてくる人と、何者でもない自分として接してくれる人を、資産を隠すことで、あらかじめ選別できるわけですね。後者のかたとの関係のほうが、長い目で見て圧倒的に楽です。
日本の闇バイトとかの現状を踏まえると、もう少し生々しいリスクの話もしておく必要があります。資産が可視化されると、空き巣や強盗といった物理的な犯罪の標的になりやすくなりますし、親戚や知人からの借金の依頼が増えるという、地味だけれど厄介なリスクも出てきます。
貸さなかったら、ケチとか守銭奴とか言われて、ずっと陰口叩かれて恨まれるわけです。
さらには生命保険や投資商品の勧誘、聞いたこともないビジネスへの誘いといった、いわゆる「金の匂いを嗅ぎつけた話」が増えるのも、このタイプのリスクです。
とくに海外の日本人コミュニティは、「駐在員じゃなかったら犯罪者だと思え」ぐらいのヤバい連中もいたりします。日本人による、日本人相手の投資詐欺ですね。海外移住した人がひっかかるケースが多いです。良く知らない海外で、親切な日本人に会って、いろいろよくしてもらうと、投資話を断れなくなるのですね。そんな感じで、海外移住する人は、海外にいる「親切な日本人」に気をつけてください。
ちなみにQ太郎は、海外ではユニクロ製のTシャツにジーパンの、できるだけ金が無さそうで目立たない服装をします。というか、日本でもおなじです。目立たないのが一番いい。日本だとチェックの長袖シャツを着ると、なぜかビラ配りの人もビラを渡さない確率が高いことがわかってきたので、そんな感じで背景に溶け込んでいます。
情報を明かさないというのは、「相手に主導権を渡さない」ということでもあります。自分の手の内を見せなければ、相手はこちらに何かを期待する根拠を持てません。沈黙というのは、消極的なようでいて、実はかなり実利的な防御策なんですね。
・慈悲深い嘘
最後に、内側の話をします。
資産を誰にも言わないでいると、他人からの「すごいですね」という評価が、そもそも発生しなくなります。承認というノイズが消えたところで初めて、自分は本当は何にお金を使いたいのか、何をしているときに幸せを感じるのか、という資産本来の使い道に、まっすぐ向き合えるようになるんじゃないかと思います。
以前、FANZAで散財したかたの話をしましたが、欲望のままにお金を使うのもどうかとは思いますが、少なくとも他人に自慢するために買っているのではないので、それはそれで「見栄の消費」ではなく、自分の好きなことにお金を使えているんじゃないかとは思います。べつに肯定しているわけではないですが、「見栄の消費」よりは、自分にとって有益と思います。あくまで比較対象が「見栄の消費」という話ですね。一般論じゃないですよ。
そんな感じで、富という鎧を脱いで、ただのいち個人として世界と接する。そういう時間のほうが、実は誰かの嫉妬から自由でいられる、いちばん心地よい状態なんじゃないかと感じています。
これ、スーパー銭湯や温泉に近い感覚かもしれません。裸になってしまえば、資産額も肩書きも関係なく、ただ気持ちよく湯船に浸かっている人がいるだけなんですね。日常の中にも、そういう「何者でもない自分」に戻れる時間を意識してつくっておくと、心の余白がずいぶん違ってくるんじゃないかと思っています。
・まとめ
そんなわけでまとめると、お金があることを隠すのは、ケチでも不誠実でもないと、Q太郎は思っています。それは、自分自身と、身近な大切なかたたちの日常を守るための、いわば慈悲深い「嘘」なんじゃないかと。
外側の守りとしては、資産を可視化しないことで、犯罪や借金の依頼といった生々しいリスクから距離を取ることができます。人間関係のフィルターとしても働いて、お金目当てで近づいてくる人と、何者でもない自分を大切にしてくれる人を、自然に選り分けることができるわけです。そもそもお金目当ての人は近づいてこない。
内側の守りとしては、承認というノイズが消えることで、本当に自分が何にお金を使いたいのか、何をしているときに満たされるのかという、お金本来の使い道にまっすぐ向き合えるようになります。比較の物差しから自分を外し、余計なリスクを遠ざけ、承認のない場所で心地よさだけに向き合う。それが、静かな金持ちという生きかたの正体なんじゃないかと思います。ただFANZAの散財は、ほどほどにしたほうがいいとは思います。
SNSを眺めて自分の生活がしょぼく見えてしまうというのも、突き詰めれば、他人の物差しを自分の中に、自分で勝手に持ち込んでしまっていることが原因なんですね。誰も「比べろ」と言ってないのに、自分で勝手に比べている。
静かに生きるというのは、逃げでも我慢でもなく、その物差しをそっと手放すための、いちばん実利的な選択なんじゃないかと、Q太郎は思っています。
みなさんは、資産が増えたことを、どこまで周りに話しますか。それとも、あえて黙っておくタイプでしょうか。よかったらコメントで教えてください。全部読ませていただいています。
数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。
ではまた、Q太郎でした。
