「健康のため」が老後を窮屈にする|長生きに執着する人たち

「健康のため」が老後を窮屈にする|長生きに執着する人たち
【毎日17時更新中!】たまに午前中にも追加投稿します。健康のために歩数、体重、血圧、睡眠点数を管理していたはずが、いつの間にか数字に毎日評価されていないでしょうか。今回は、健康管理が終わらない仕事になり、老化まで病気として治そうとすることで...

こんなコメントをいただいきました。

「健康に執着しすぎは不健康。何か足すより一つでも健康に悪いことを引くほうが長く続くと思う」

とのことです。ありがとうございます。

健康は重要ですが、なんかいかに長生きするかが重要になって、やりすぎになっているケースも多いですね。

健康のために、毎日1万歩を歩くというのがありますが、雨の日も、疲れている日も、歩数計が1万歩になるまで家へ帰れないとか、足が痛くなっても歩き続けるとか。

まあ、べつにいいのですけど、健康のための運動というより、歩数計から与えられた仕事のような感じもしなくもありません。歩数計にコントロールされている感がすごい気もします。

なんか最近は、高齢者は歩きすぎても膝への負担が大きくなるので、一日8,000歩以内の方が良いとか、この手の健康法はいろいろ説があってややこしいです。もはやどれを信じるかの宗教的な感じもありますね。

それに年を取ると、健康に関する数字が増えていきます。

体重、血圧、血糖値、コレステロール、歩数、睡眠時間、筋肉量。

一つひとつは、身体の状態を知るために役立ちます。

しかし、数字が少し悪くなるたびに、自分の生活まで失敗したように感じる人がいます。

健康のために塩分を減らす。甘い物をやめる。酒をやめる。夜更かしをやめる。外食をやめる。転ぶと危ないので、遠出もやめる。

最後には、病気を避けるために、人生から楽しみを全部取り除いてしまいます。

長生きするために、生きることをやめているのですね。それだけやっても、結局いつか亡くなりますけどね。

もちろん、必要な治療や服薬をやめましょうという話ではありません。

ただ、健康も執着のレベルまでいけば、それ自体が生活を苦しくします。

健康でいるための毎日が、健康管理をするための毎日へ変わってしまうからです。もはやそれは精神的に健康な状態なのかという話にもなります。

そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に飲み込まれないための生存戦略を独自の視点で解説します。

今回は「健康のためが老後を窮屈にする」を深掘りしていきます。

・三つの話

今日は大きく三つ話します。

一つ目、健康の数字が人生の成績表になること。

二つ目、老化まで病気として治そうとすること。

三つ目、国の健康目標と、個人の人生の目的は違うことです。

最後に、老後の健康をどこまで追いかければよいのか、Q太郎なりの見立てを置いて終わります。

・一つ目・健康が終わらない仕事になる

それでは一つ目、健康の数字が人生の成績表になることです。

健康管理には、終わりがありません。

体重が減れば、次は体脂肪率が気になります。

血圧が下がれば、今度は血糖値やコレステロールが気になります。

昨日1万歩を歩いたら、今日も1万歩を達成しなければ落ち着きません。

睡眠を記録する機械を使えば、朝起きて最初に確認するのは、自分がよく眠れた感覚ではなく、機械がつけた睡眠の点数になります。

本人は気分よく目覚めたのに、睡眠点数が低いと、「今日はよく眠れなかった」と考え直します。

身体の感覚より、万歩計とかの数字の判定を信用するのですね。

ここまでくると、健康を確認しているというより、健康の数字から毎日評価されています。

健康診断も同じです。

身体の状態を早く知り、必要な対応をするためのものです。

ところが、すべての項目を正常範囲へ入れることが目的になると、健康診断が通知表になります。

Aが多ければ優秀。注意の項目があれば落第。

去年より一つ数字が悪くなっただけで、老後全体が失敗へ向かっているように感じます。

そこで、さらに食事を管理し、さらに運動を増やし、健康情報を調べます。

しかし、健康には完成がありません。

一つの病気を防いでも、別の病気になる可能性はあります。

すべての危険をゼロにはできません。

ゼロにできないものをゼロにしようとすれば、仕事は一生終わりません。

そして、この仕事には休日がありません。

旅行中でも食事の塩分を考えます。友人との会食でもカロリーを計算します。少し夜更かししただけで罪悪感を持ちます。

健康のために長生きしたいはずが、長生きするための健康管理で一日が終わってしまうのですね。

・二つ目・老化まで病気として治す

二つ目、老化まで病気として治そうとすることです。

年を取れば、若いころと同じ身体ではなくなります。

視力や聴力が低下します。筋力が落ちます。関節も動きにくくなります。疲れやすくなり、体調を崩したあとの回復にも時間がかかります。

さらに、複数の慢性疾患を抱える人も増えてきます。

もちろん、その中には治療が必要な病気があります。

ただ、年をとったら、それなりに体が痛くなったり、不調が起こったりするのは、誰にでも起こる当たり前の老化現象です。老後の身体に起こる変化をすべて、治して消すべき異常と考えるのも無理があります。

老化まで病気として考えれば、身体のすべてを修理し続けなければならなくなります。

血圧を下げる。血糖値を下げる。体重を減らす。筋肉を増やす。睡眠を改善する。視力を保つ。聴力を保つ。関節の痛みをなくす。

一つ改善しても、別の場所が弱ってきます。

若い身体へ完全に戻ることを健康の基準にすれば、何をしても未完成です。

老後の病気は、もはや「老化」として認めて、諦めた方が良いんじゃないかという気もしてきます。ここでいうあきらめるは、仏教でいうところの「明らかにする」という意味ですね。

厚生労働省の資料では、フレイルを、加齢に伴って予備能力や回復力が低下した状態として説明しています。

病気だけでなく、筋力、認知機能、食事、心理状態、人とのつながりなど、さまざまな要因が関係します。

早めに気づいて、運動や栄養、社会参加などで進行を遅らせることには意味があります。

ただし、これも若返るという話ではありません。

年を取った身体で、生活を続けやすくするための工夫です。

老後の健康とは、病気が一つもないことではありません。というか、そんなことは無理です。どんどん老化で弱っていくのは自然の原理です。そこはきっぱりとあきらめて、病気や老化を抱えたまま、自分の生活を続けられることが、老後の健康だとQ太郎は思います。

膝が少し痛くても、無理のない形で買い物や旅行に行ける。

若いころより疲れやすくても、好きなゲームや読書を楽しめる。

そんな感じで、本人がやりたいことを続けられるなら、その人はそれなりに健康です。

逆に、検査の数字を完璧にするため、食べたい物も、人との付き合いも、外出も全部やめたとします。

医学的な数字は改善しても、生活はやせ細っていきます。

病気をなくすことと、健康に生きることは、まったく同じではないのですね。というか、過ぎたるは及ばざるがごとしで、やりすぎもまた不健康とは思います。

老後に病気を完全になくすという考えは、執着の原因にもなります。老後の病気は「老化」と考えてあきらめ、それ前提に生活を組み立てたほうが気楽ですし、現実的とは思いますね。どちらにしろいつか亡くなりますし、長生きすればいいわけでもないですしね。

・三つ目・国の健康と、自分の人生

三つ目、国の健康目標と、個人の人生の目的は違うことです。

厚生労働省は、生活習慣病の予防、フレイルの予防、介護予防、健康寿命の延伸を進めています。

行政としては当然です。

病気になる人や、介護が必要になる人が減れば、本人や家族の負担を減らせます。

医療費や介護費を抑えることにもつながります。

社会全体の数字として考えれば、できるだけ多くの人が、できるだけ長く働いて、医療費をあまり払わないで、自立して暮らせるほうが、国としてはいいわけですね。社会保険の負担も減りますし、税金でホクホクできるわけです。

ただ、国の目的と、個人の人生の目的は同じではありません。

行政は、血圧、体重、歩数、健康寿命、要介護率など、集計できる数字で政策を考えます。

一方、個人にとって大切なのは、その健康な時間を使って何をするかです。

友人と酒を飲んだり食事をする楽しさ。

夜遅くまでゲームをする楽しさ。

旅行先で、塩分やカロリーを気にせず名物を食べる楽しさ。

こうしたものは、健康診断の数値には表れません。

むしろ、身体の数字だけを考えれば、減らしたほうがよい行動として扱われる場合もあります。

ただ人間には、愚かなことをする権利というのがあるのですね。

厚生労働省は、あなたの健康寿命を考えてくれます。

しかし、その健康寿命を使って何をするかまでは、決めてくれません。

それは本人が考えることです。

ところが、行政の目標を自分の人生へ丸ごと持ち込むと、国にとって望ましい健康な高齢者になることが、人生の目的になります。

病気にならない。転ばない。介護を受けない。医療費を使わない。周囲へ迷惑をかけない。働いて税金を納めてくれる。

確かに立派です。

しかし、我々は国の統計を改善するために生きているわけではありません。

健康情報に従って身体を管理することと、幸福に生きることは別の問題です。

ここを混同すると、国が示した健康目標を達成できない自分へ、罪悪感を持つようになります。

今日は歩けなかった。甘い物を食べてしまった。体重が増えた。

しかし、その日が楽しかったのであれば、人生全体として本当に失敗だったのでしょうか。

健康の数字は下がっても、人生の点数は上がっているかもしれません。

その評価まで、歩数計や健康診断へ任せる必要はないと思います。

・まとめ・身体は使うためにある

最後に、老後の健康をどこまで追いかければよいのか、Q太郎なりの見立てを置きます。

健康は、人生を楽しむための道具です。

お金も道具ですが、健康も道具にしかすぎないわけです。道具を使って何をするかが重要なわけです。

健康そのものを人生の目的にした瞬間、長生きすることが毎日の仕事になります。道具を磨き続けて、結局使わないみたいな感じですね。

Q太郎は、身体を車のようなものだと考えています。

長く使うには、整備が必要です。

異音がすれば点検する。必要な部品は交換する。乱暴な運転を続けない。

ただ、車庫で一生整備を続けるために、車を持っているわけではありません。

車は、どこかへ行くためにあります。

身体も同じです。

食事を整え、運動し、必要な治療を受けるのは、その身体を何かに使うためです。

旅行へ行く。好きな物を食べる。人と会う。本を読む。ゲームをする。

整備だけして、どこにも行かなければ、何のために身体を長持ちさせているのか分からなくなります。

年を取った身体は、新品には戻りません。そこはあきらめてください。

多少の不調や病気と付き合いながら、その身体でどこへ行くかを考えることのほうが現実的ですし、重要です。

病気を一つも持たずに長生きすることではなく、病気があっても、やりたいことを続けられること。

それぐらいを健康の目標にしてもよいのではないでしょうか。

厚生労働省は、健康に長生きする方法を教えてくれます。国としてはそのほうが財政面でもいいわけです。

しかし、長生きした人生をどう使うかは教えてくれません。

健康のために楽しみをどこまで減らすのか。楽しみのために、どの程度の不健康を引き受けるのか。

これは医学だけで決める問題ではありません。

その人の人生観の問題です。健康という「道具」をどう使うかなのですね。

老化を治そうとすると、老後そのものが病気になります。

健康のために長生きするのではなく、やりたいことを続けるために健康を使う。

長生きするために、生きることをやめない。道具を磨き続けない。どちらにしろ、どんなに頑張っても、いつか終わりが来ます。永遠に生き続けることは、どんなに努力しても無理です。それをいかに早めに悟って、お金や健康という道具を使って、どう生きるかを考える。

今のところ、Q太郎はそんなふうに考えています。

皆さんは、健康のために始めたことが、いつの間にか義務や負担になった経験がありますか。また、健康の数字と、日々の楽しみをどのように折り合わせているでしょうか。よろしければコメント欄で教えてください。全部読ませていただいています。

数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。

ではまた、Q太郎でした。この動画を気に入っていただけましたら、高評価・チャンネル登録をよろしくお願いいたします。

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