
こんなコメントをいただきました。
「世の中、答えが無いことが多いですね。複雑な世の中に、ただ一つの答えがあるという考え方は、陰謀論的な考え方と同じだと思います」
とのことです。ありがとうございます。
陰謀論というと、知識のない人が、根拠のない話を信じている。
そんなイメージを持つかもしれません。
しかし陰謀論にのめり込む人は、何も考えていないわけではありません。
むしろ大量のニュースを読み、映像を見て、政治家や企業の発言を調べ、さまざまな出来事をつなぎ合わせています。
本人は、普通の人が気づいていない世界の裏側を、自分だけが見抜いたと感じています。
では、何が問題なのでしょうか。
難波優輝さんの著書「物語化批判の哲学」では、陰謀論的な思考を、世界をパズルとして捉えることから考えています。
パズルには、あらかじめ答えがあります。
散らばったピースを正しく組み合わせれば、一つの完成図が現れます。
この感覚や、解けたときの気持ちよさを現実世界へ持ち込むと、すべての出来事には意味があり、証拠を集めれば、名探偵コナンのように「真実はただ一つ」にたどり着けると考えるようになります。
しかし現実は、パズルとは違います。
原因が複数ある場合もあります。正反対に見える説明が、両方とも一部は正しい場合もあります。そもそも答えが無い場合もあります。だいたいのことはそもそも答えがなく、結果論で論じていることが多かったりしますしね。
世界は、我々がすっきりするために作られた問題集ではないわけです。むしろすっきりしないほうが多い。
そんなわけで、ようこそ、Q太郎のお金の哲学へ。お金に飲み込まれないための生存戦略を独自の視点で解説します。
今回は「なぜ陰謀論は気持ちいいのか」を、「仮説ポルノ」という概念から深掘りしていきます。
・三つの話
今日は大きく三つ話します。
一つ目、なぜ人は世界をパズルにしたいのか。
二つ目、思いつきの気持ちよさが、なぜ反証を排除するのか。
三つ目、答えを急がず、複数の可能性を持つ方法です。
最後に、「分からない」と言えることについて、Q太郎なりの見立てを置いて終わります。
・一つ目・世界をパズルにしたい
それでは一つ目、なぜ人は世界をパズルにしたいのかです。
パズルには、作った人がいます。
必要なピースが用意され、正しく並べれば完成します。
不要な情報と必要な情報を区別でき、解けたかどうかも判定できます。答えがないパズルはただのクソゲーです。
しかし現実世界は、パズル的に言えば、基本的にクソゲーです。
必要な情報が欠けていることもあれば、偶然が結果を変えることもあります。一つの原因から一つの結果が生まれるのではなく、原因と結果がお互いに影響し合うこともあります。
例えば少子化問題です。
若者の可処分所得が低い。雇用が安定しない。住宅費や教育費が高い。女性の就労が増えた。結婚観が変化した。都市へ人口が集中した。育児の負担が大きい。
さまざまな説明があります。
どれも、まったく関係がないとは言えないでしょう。
しかし、そのうち一つを解決すれば、少子化がすべて解決するとはかぎりません。
複数の条件が絡み合い、その関係も時代や地域によって変わります。
ところが世界をパズルとして考えると、「本当の原因は一つあるはずだ」と思ってしまいます。
少子化は、ある政策のためだ。ある集団の利益のために、意図的に起こされている。
先に完成図を決め、政治家の発言、企業の行動、海外のニュースなどを、そこへはめ込んでいきます。
散らばっていた出来事が一つにつながった瞬間、強いカタルシスがあります。
「なるほど。そういうことだったのか」と、世界が理解可能なものになるからです。
前回扱った、人生の物語化やゲーム化と同じですね。
人間は、複雑で曖昧なものを、始まり、原因、敵、目的、結末のある形へ落とし込みたがります。
理解できる形にすれば安心できます。
しかし、分かりやすくしたぶんだけ、現実から切り落とされるものもあります。
・二つ目・思いつきの気持ちよさが反証を消す
それでは二つ目、思いつきの気持ちよさが、なぜ反証を排除するのかです。
仮説を立てること自体は、悪いことではありません。
株価が下がった理由を考える。円安になった原因を考える。少子化が進んだ背景を考える。
仮説がなければ、情報を検討することもできません。
問題は、最初に気持ちのよい仮説を思いついた瞬間、探索を終えてしまうことです。
陰謀論的な思考では、仮説に合う情報は証拠として採用し、合わない情報は無視します。
さらに反対の証拠が出ても、「その証拠自体が隠蔽工作だ」とか「フェイクニュースだ」とかで処理できます。実際、どこかの国の大統領が似たことをやっています。
反論する人がいれば、その人も陰謀へ加担していることにする。
否定されればされるほど、「真実だから消されようとしている」と考える。
これでは、どのような事実が出ても、仮説が間違っていたことにはなりません。
本書では、刺激的な仮説を次々と作り、証拠らしきものを組み合わせ、その興奮を増幅することを「仮説ポルノ」と呼んでいます。
仮説は、本来、現実へ近づくための道具です。
ところが仮説ポルノでは、仮説を膨らませること自体が娯楽になります。
金融市場でも同じことが起こります。
株価が下がったのは、機関投資家が個人投資家を損させるためだ。円安は、ある勢力が日本を安く買うために起こしている。新NISAは、国民の預金を市場へ差し出させるための罠だ。
誰か一人の意図へ原因をまとめれば、世界は非常に分かりやすくなります。
実際に、政府や企業や投資家の意図が影響する場合はあります。
しかし相場には、金利、企業業績、為替、需給、政策、投資家心理、海外情勢など、さまざまな要因が絡み合います。一つのファクターだけで動いていないのですね。
誰かの意図が一つ含まれていることと、その意図だけですべてを説明できることは別です。
陰謀論的思考の問題は、仮説を立てることではありません。
一つの仮説へ執着し、反証を許さず、それ以外の可能性を検討できなくなることです。
・三つ目・思いつきに待ったをかける
それでは三つ目、答えを急がず、複数の可能性を持つ方法です。
必要なのは、パズル的に考えることをやめることではありません。それ自体はべつに悪い事ではありませんし、研究と言うのは基本的にパズル的な思考で行います。
ただ陰謀論との違いは、一つの答えへ安易にたどり着かず、反証を受け入れ、仮説を作り直す柔軟さを持っていることです。だから学会とかで討論とかするわけです。論文を発表したら、必ず質問コーナーがあるわけです。
昔あったような、「STAP細胞は存在する」とか言って、反証を受け付けないとか、科学者のやることではないわけです。陰謀論を通り越して、「信じるか、信じないか」の宗教化しているわけです。
科学とは、反証が証明されたら、これまでの仮説をひっくり返して、さらに先に進むためのシステムです。それをみんなで繰り返していくわけです。そこが陰謀論や宗教的な考え方とは違うわけです。
これは、いわゆる弁証法的な考え方にも似ています。
最初に、自分の仮説であるテーゼを置く。
次に、それと矛盾する証拠や別の説明であるアンチテーゼを受け入れる。
そして両方を踏まえ、より広い仮説であるジンテーゼを作ります。
例えば、「少子化は若者の所得が低いからだ」というテーゼを立てます。
すると、所得が比較的高い層や地域でも、出生率が高いとはかぎらないという反対の情報が出てくるかもしれません。
ここで反対の情報を無視せず、「所得は一つの要因だが、それだけでは説明できない。住宅、働き方、価値観、育児負担などが組み合わさっているのではないか」と、仮説を広げます。
ただし、そこで生まれたジンテーゼも、最終的な正解ではありません。
新しいデータが出れば、また修正します。ジンテーゼをまたテーゼにして、アンチテーゼによって進化させるわけです。
知識とは、一つの正解へ到着することではなく、反証によって仮説を更新し続ける運動なのですね。
自分の仮説に反対する情報は、邪魔なものではありません。
最初の仮説だけでは見えなかったものを取り込み、考えを広げるための材料です。
ここで大切なのが、思いついた瞬間の気持ちよさに、いったん待ったをかけることです。
この仮説が間違っているとしたら、どのような事実が出てくるのか。
同じ事実を、別の仮説でも説明できないか。
自分は、正しさではなく、刺激の強さを選んでいないか。
この三つを考えるだけでも、最初の答えへ飛びつきにくくなります。それが学者的な態度ですね。
・Q太郎の見立て・分からないまま尊重する
ここからは、Q太郎なりの見立てです。
Q太郎は、頭のよい人とは、「世界の正解」を見つけた人ではないと思っています。
「まだ分からない」と言ったまま、複数の可能性を持ち続けられる人です。学者さんはそんな人が多いので、基本的に曖昧な答えをする人が多いですね。
人間は、すっきりしたい生き物です。
原因が一つに決まり、敵が見つかり、世界の裏側を理解できれば安心します。
しかし、その安心と引き換えに、ほかの可能性が見えなくなります。
さらに失われるのが、理解できないものを、理解できないまま尊重する力です。
他人が、なぜそのように考えるのか分からない。
ある社会問題に、明確な解決策が見つからない。
データを見ても、どの説明が正しいのか決められない。
それでも、自分の物語へ無理に押し込まず、「自分にはまだ分からない事情があるのかもしれない」と保留する。
これは思考の放棄ではありません。
世界は自分の理解より大きいと認める、高度な知性と寛容さです。
陰謀論的思考は、世界を疑っているように見えます。
しかし、すべての出来事が自分の考えた一つの完成図へ収まると思うのは、むしろ世界をあなどっているのかもしれません。
現実には、足りないピースがあります。複数の答えが成立する場合もあります。そもそも答えが存在しない場合もあります。
世界を理解するとは、すべてのピースを一つの絵へ完成させることではありません。
足りないピースがあることや、完成しない可能性を受け入れることです。
「分からない」で止まれることは、知識の不足ではありません。
思いつきの気持ちよさに待ったをかけ、反証と別の可能性へ場所を空けることです。
それが、答えのない世界を他人と一緒に生きるための、最低限の礼儀とは思います。
皆さんは、「すべてがつながった」と思ったあとで、別の説明に気づいた経験がありますか。
また、あえて結論を出さずに保留している問題があれば、コメント欄から教えてください。全部読ませていただいています。
数字を味方に。そして、誰の欲望でもない自分の人生を、自分の手で耕していきましょう。
ではまた、Q太郎でした。この動画を気に入っていただけましたら、高評価・チャンネル登録をよろしくお願いいたします。
