『成功ではなく、幸福について語ろう』ー今すぐ「幸せ」になる方法【人生・FIRE関連 書籍】
QYLD全力太郎ことQ太郎です。
以前「FIREの危険性ー目的と手段を間違えると人生不幸になる話」という動画を上げました。
今回は、ベストセラー本『嫌われる勇気』で知られる岸見一郎氏の著書『成功ではなく、幸福について語ろう』をもとに、「幸せ」と「成功」の違いを述べていきます。
間違った努力をして、かぎりある人生を消耗してしまわないためにも、ぜひ聞いていただければと思います。
本記事をYouTube動画で観たい方はこちらのリンクから。
「幸せ」と「成功」の違い
以前の動画でも述べましたが、「お金」も「仕事」も目的にたどり着くための手段でしかありません。
人間の目的と言うのは、究極的には「幸せになること」です。
精神の安定でも、良い家族関係でもなんでもいいですし、これらは人によって千差万別ですが、とにかく自分にとって幸せを感じることですね。
手段 目的
→ 仕事
人 → お金 → 幸せ
→ 人間関係
幸せの形は人それぞれですが、それに近づくために「お金」や「仕事」という手段を使うばあいがあります。
なぜ「ばあいがある」という言い方をするかと言えば、その手段を使わなければ「幸せ」になれないわけではないからです。
ぶっちゃけ手段をすっとばしてさっさと幸せにたどり着いてしまえばいいのです。
以前、「資本家と漁師」の話をしました。
資本家が漁師に、「釣りだけをしていたんじゃもうからない。私だったら船で漁に出て、工場で缶詰をつくってたくさん売る」みたいな話をします。
漁師は「それだけお金を貯めてなにがしたいんだ?」と聞くと、資本家は「自然の豊かな島で釣りをしながら家族とのんびり暮らす」と答えました。
漁師は「もうすでにその状態だから、お金稼ぎはいいや」といいます。
話のバージョンはいろいろありますが、資本家は幸せにたどり着くために大回りをしていることになり、タイムパフォーマンスで考えてもかなりタイパの悪いことをしているのですね。
けっきょくのところ、「お金」とか「仕事」とかの「手段」をすっとばして、目的である「幸せ」にたどり着ければそれで目的達成なわけです。
そんなこと可能なのかといえば、結論からいえば可能です。
「成功」は積み重ねるもの
まず「幸せ」と「成功」の違いについて、『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎氏は『成功ではなく、幸福について語ろう』の中でこう述べています。
「成功」というのは「積み重ねる」もので、「量的なもの」であり、「進歩」である。
「幸せ」とは「存在」であり、「質的なもの」である。
まず「成功」についてですが、たとえば野球選手になりたいばあい、毎日練習したり、試合をしたりして、実績を積み重ねていかなくてはなりません。
なんの練習も無しに甲子園で優勝できるわけがありません。いきなり成功することはできないのですね。
つまり成功というのは「積み重ねていくもの」であり、「量的なもの」と言えます。
早期退職・経済的独立の「FIRE」も「成功」の一つです。「お金を貯める」という積み重ねをしていかなければなりません。
「明日からFIRE」というわけにはいかないのですね。
そのため「成功」は「積み重ね」であり、数をこなさなくてはならないので「量的なもの」なのです。
そして「成功」とは「進歩」なのです。
「幸せ」は「存在」
これに対して、「幸せ」というのはなにかというと、「存在」であり、「質的なもの」です。
たとえば「お風呂に入って幸せ」とか、「散歩してて幸せ」とか、「家族と一緒にいて幸せ」とか、人によって基準が違うため、「量」ではなくて「質」になります。
そして量ではないので、積み重ねるものがありません。
「お風呂に入ること」を、血のにじむような努力をして、実績を積み重ねることによって、やっと「お風呂に入って幸せ」にたどりついているわけではありませんよね。
幸せになるためになにかを積み重ねる必要はなく、幸せになろうと思えばすぐになれるのです。
ただ岸見氏に言わせれば、「幸せになる」という表現自体も間違っています。
「幸せ」は「存在」なので、「なる」必要すらありません。
「幸せになる」のではなく、「幸せである」ことが重要だというのが、岸見氏の見解です。
つまり「幸せ」はすでに人の中に内在されており、それに気づくことが重要なのですね。
達成する必要はなく、自分の中にすでにあるのです。そしてそれが一人ひとり違うわけです。
「成功」と「幸せ」の決定的な違い
ここが「成功」と「幸せ」の決定的な違いの部分ですが、
「成功」はまねできる。
「幸せ」はまねできない。
ということです。
「成功」はいわゆる「ノウハウ」があります。
野球でしたら「球の投げ方」とか「球の打ち方」とかですね。
企業運営も、うまくいっている人のまねをすればある程度はうまくいきます。
投資も「インデックス買っとけ」とか、ある程度安全な方法というのはあります。
一方で「幸せ」はまねできません。
人それぞれ、なにに幸せを感じるかは違いますので、まねしようにもできるわけがありません。
「本読むのが好き」な人もいる一方で、「本とか嫌い」という人もいます。
本が嫌いな人に本をわたしても、その人は幸せになれないのです。
そしてもう一つの大きな違いは、
「成功」は何かを達成する必要がある。
「幸せ」は達成する必要がない。
という点です。
これはだれでもいますぐに幸せになれるということにもなります。
「幸福」と「幸福感」の違い
ここで注意が必要なのが、「幸福」と「幸福感」の違いです。
お酒を飲んだり、おクスリをやったりみたいな、短期的に気持ちよくなって、それが切れたら気分が沈むというものは「幸福」ではなく、「幸福感」です。
それをやっているあいだだけ気持ちよくなっている状態ですね。
岸見氏が書籍の中で言うには、
「いつわりの幸せはコートを脱ぎすてるように簡単にすてられる。
真の幸せは自分と一体である(自分自身なので脱ぎ捨てられない)。
お金や地位はあなたに所属するものであり、あなた自身ではない。
人から期待される自分を生きることは、自分自身を生きることにならない」
として、「真の幸せ」はあなた自身に所属するものではなく、あなた自身と一体のものであると言います。
幸せの正体とは?
それでどんなものが幸せかと言えば、『嫌われる勇気』のアドラー心理学的には「共同体への貢献」が人の幸せとされています。
ただ岸見氏は、べつに物理的に貢献しなくても
「人が存在しているということだけでまわりには影響をあたえている。それがすでに貢献になっている」
と言います。
つまり、自分が中心になってなにかをする必要はなく、むしろ
「自分が中心にいなければならないと考える人は、自分自身の価値を見出せていない」
としています。
「人は存在しているだけで価値がある」のであり、これを岸見氏は「自分に価値があると思う勇気」と表現しています。そしてそれが「幸福」の正体とも言えます。
この「自分の価値」というのは、先ほども述べたようにお金や地位などあなたに所属するものではなく、「あなた自身の存在に価値がある」との考えです。
そして「自分に価値がある」と思うのとおなじように、「他人にも価値がある」と考えなければなりません。
そうやって「存在している」ことで共同体に貢献していると考えられることこそが「幸福」といえます。
俺か、俺以外か
ブッダは生まれたときに「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。
ローランドは「俺か、俺以外か」と言いました。
これは傲慢でもなんでもなく、すべての人がこうである必要があります。
つまり
「自分の存在に価値がある」「特別な存在である」ということは、
「他人の存在にも価値がある」「特別な存在である」ということとイコールにもなります。
自分自身は共同体の1部分であると同時に特別な存在であり、他人も共同体の1部分であると同時に特別な存在となります。
他者に貢献できなくても、自分の価値は減りません。存在しているだけで価値があるのですから、減りようがありません。
存在が貢献です。
「別に共同体に貢献したくない。一人でゲーム遊んでいるだけでいい」
という人がいたとしても、そのゲームやテレビは誰がつくったのでしょうか。電気はどこから来ているのでしょうか。
そしてゲームを遊んでくれているあなたの存在は、ゲームやテレビをつくった人、電気会社などに貢献しているのです。テレビやゲーム機の中にもいろいろなパーツが組み込まれていて、それぞれの背景にも人がいて貢献しています。
この動画を観ているみなさんも、観ているだけでQ太郎を含め、電気会社やらスマホ会社やらに貢献してくださっています。
共同体とかかわりをもたないというのは、生きている以上、もはや不可能なのです。
オギャーと生まれたときからすでに誰かの手を借りて生きているのですしね。
そういうわけで、人は存在しているだけでもはや共同体の一部であり、存在しているだけで価値があるのです。
「自分に価値があると思う勇気」、それこそが岸見氏のいう共同体での貢献です。
そしてその貢献こそが「幸福」だと言います。
生きることは「苦」である
ブッダは「生きることは「苦」である」と言いました。
岸見氏もそれを前提に考え、
「「苦」を前にして、できることをしようとするのが真の楽観主義」
と述べています。ブッダもその意味では楽観主義者です。
人は不幸にあっても、簡単にうちのめされるような脆弱な存在ではありません。
そしてそのような状況でも、いまこの場で「幸せになる勇気」を持っています。
未来は存在しない
未来というものは存在しません。
我々はつねに「現在」にしか生きられず、「現在」がずっと未来まで続いていくだけです。
方丈記の最初に「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉があります。
時間は目の前を流れている川のようなもので、あなたはずっと「今」という川岸に立っているだけです。あなた自身は一歩も動いていません。ただ目の前で時間という川が流れ続けているのを見ているだけです。
たまに川上(未来)や川下(過去)に目を向けているだけで、あなたの立っている場所はずっと「今」なのです。
だからいま現在、この場で「幸せである」ことが、未来においても「幸せである」ことになるのです。
そしてその「幸せ」というのは、その場限りで嬉しいという「幸福感」ではなく、共同体の中で存在している自分に価値があると思うことです。
早期退職・経済的独立の「FIRE」の話をしますと、FIREしたとたんに幸せになるわけではありませんし、FそもそもIREしたからといって「幸せである」こととは関係ないというのは、ここまでの話でわかるかと思います。
FIREすると最初は嬉しいかもしれませんが、それは「幸福感」です。すぐに人は現状に慣れて、さらなる幸福感を求めはじめます。それを追っているときりがなくなります。
今現在「幸せになる」必要があります。それが共同体への貢献、「自分の存在に価値があると思う勇気」です。
まとめ
ここまででまとめると、
・「成功」とは「積み重ね」であり、「量的なもの」であり、「進歩」である。達成しなければいけないものであり、まねできるもの。
・「幸せ」とは「存在」であり、「質的なもの」である。まねできないものであり、達成する必要がないもの。
・「幸せになる」のではなく、「幸せである」ということ。達成する必要はない。
・「幸福」と「幸福感」は違う。一時的に気持ちよくなるものは「幸福感」。
・お金や地位はあなたの所属物であり、「幸せ」はあなた自身である。偽りの幸福は脱ぎ捨てることができるが、あなた自身は脱ぎ捨てられない。
・「幸せ」は「共同体への貢献」。あなたが存在していることが価値であり、あなたの存在が共同体への貢献である。
・自分が中心にいなければならないと考える人は、自分自身の価値を見出せていない。「自分の存在に価値がある。特別な存在である」ということは、「他人の存在にも価値がある。特別な存在である」ということでもある。すべての人間が「天上天下唯我独尊」であり、「俺か、俺以外か」である。「共同体の一部」であり、「個々の特別な存在」である。
・未来は存在しない。「現在」が未来まで続いているだけ。今現在幸せであれば、未来でも幸せである。
・人生は「苦」である。「苦」を前にして、できることをしようとするのが真の楽観主義。人は不幸にあっても、簡単にうちのめされるような脆弱な存在ではない。
・必要なのは「自分に価値があると思う勇気」「幸せになる勇気」。
となります。
ブッダはいいました、「サイの角のようにただ独り歩め」と。
「幸せ」は「質的」なものであり、あなたの幸せは他人にまねできるものではありません。
「真の幸せ」は「あなたの存在に価値があると思える」ことであり、他人はあなたにはなれません。
そんなわけで、「幸せ」にはいますぐになれます。「成功」と違って積み重ねる必要も達成する必要もありません。
必要なのは「自分に価値があると思う勇気」「幸せになる勇気」だけです。
そんなわけでFIRE後とかを待たずに、いますぐ幸せになっていただければと思います。